007原作小説:長編第1作「007/カジノ・ロワイヤル」の登場人物とあらすじなどについての紹介です。
007原作小説:長編第1作「007/カジノ・ロワイヤル」の出版データ
タイトル:
「Casino Royale 」
アメリカ出版時のタイトル:
「You Asked for It(自業自得)」
英国の出版年:
1953年4月13日
出版社:
ジョナサン・ケープ社
出典:https://www.thehandbook.com/drink-it-now-read-it-in-lockdown/
ハードカバー版
初版本のカバーデザイン
カバー・アーティスト: ケネス・ルイス
ページ数:
213ページ
007原作小説:長編第1作「007/カジノ・ロワイヤル」の登場人物
ジェームズ・ボンド
英国秘密情報部員
ジェームズ・ボンドのプロフィールはコチラ!
ジェイムズ・ボンドという名の男【ジェームズ・ボンド007のプロフィール】
M
ボンドの上官
ル・シッフル
ソ連工作員
アルザス地方の重工業ならびに輸送産業における共産党系労組「アルザス労働者連合組合」の地下会計責任者
ヴェスパー・リンド
美貌の英国秘密情報部員
海軍婦人部隊からS課に派遣されてきたS課の課長の私設助手
ルネ・マチス
フランス参謀本部第二課員
フェリックス・レイター
米国中央情報局員
S課の課長
片腕のやせて背の高い男
ミス・マネーペニー
Mの秘書
ビル
Mの幕僚主任
クレメンツ
ボンドの課の課長
ムンツ夫婦
ボンドが泊まっているホテルの部屋の上の階に宿泊してボンドを監視している夫婦
夫はドイツ人、妻はチェコ人
ベイジル
ル・シッフルの手下のやせた男
ギブソン
ボンドの療養のためにイギリスから派遣されてきた美人看護婦
ボンドの担当医
フランスの参謀本部第二課から派遣されてきた若くて知的な顔をしたフランス人
「禁断の果実館」のベルソワ夫妻
亭主のベルソワは片腕のない中年男でロワイヤル警察署長の友達
ベルソワ夫人は、ととのった丸顔のやさしい目つきの女性
アドルフ・ゲトラー
スイスで時計販売を営んでいる黒い眼帯の男
007原作小説:長編第1作「007/カジノ・ロワイヤル」のあらすじ
【目次】
第1章「秘密情報部員」
第2章「M宛の書簡」
第3章「007号」
第4章「敵の耳」
第5章「本部からきた女」
第6章「麦わら帽子の男ふたり」
第7章「赤と黒」
第8章「ピンクの光とシャンペン」
第9章「ゲームはバカラ」
第10章「特別テーブル」
第11章「真実の瞬間」
第12章「死の筒」
第13章「愛のささやき、憎しみのささやき」
第14章「バラ色の人生?」
第15章「黒うさぎとグレイハウンド」
第16章「肌のむずつき」
第17章「ねえ、きみ」
第18章「岩のような顔」
第19章「白いテント」
第20章「悪の本質」
第21章「ヴェスパー」
第22章「急ぐ大型車」
第23章「情熱の潮」
第24章「禁断の果実」
第25章「黒い眼帯」
第26章「ぐっすりおやすみ」
第27章「血まみれの心」
【あらすじ】
午前3時、カジノのにおいと煙と汗は吐き気がするくらいだ。やがて、はげしい賭けからくる貪欲と不安と神経の緊張のあかみたいなものがたまってできた、魂のただれに耐えられなくなり、五感が目をさましてそれに反発する。
第1章「秘密情報部員」
出典:https://www.faydalton.com/casino-royal
ソ連工作員で、アルザス地方の重工業ならびに輸送産業における共産党系労組「アルザス労働者連合組合」地下会計責任者ル・シッフルは、組合資金を増やす目的で、レニングラードの第3課から委託された金から5000万フラン流用してノルマンディとブルターニュ一帯の売春宿の組織を手に入れる。
しかし、4月13日、フランスで法律第46685号「売春宿の閉鎖ならびに売春禁止強化のための法律」(マルト・リシャール法)が成立。
ル・シッフルの組合の資金を増やす計画は失敗し、組合資金の残りは半分の2500万フランにまで減らしてしまう。
ル・シッフルの不幸はスメルシュが何かをかぎつけたかもしれないということであった。
6月15日からロワイヤルのカジノではヨーロッパ最高の賭けが行われる。ル・シッフルはロワイヤルのカジノで行われる賭博で2500万フランを資金に5000万フランをバカラで儲けて会計の穴を埋めようと考える。
ル・シッフルは、ディエップ(フランス北西部、セーヌマリティム県のイギリス海峡にのぞむ海港都市)の北に位置するロワイヤル・レゾー(架空の場所)に1週間、別荘を借りた。
英国秘密情報部のS課(ソ連関係担当)は手強く危険なソ連スパイであるル・シッフルをカジノの賭博で破滅させる作戦をMに提案する。
戦前、モンテカルロのカジノでルーマニア人がいかさまをしていたが、007号ことジェームズ・ボンドはフランスの第2課の連中と一緒に対決しシェミーで100万フラン勝った経験から今回の任務に007号が選ばれる。フランスの参謀本部の第2課のルネ・マチスも協力することになる。
ロワイヤル・レゾーに着いたボンドは、マチスからボンドのことが敵にばれてしまったと聞かされる。ボンドが宿泊する部屋の上の階に宿泊して旅行客を装った夫婦から監視され、また、路上で爆弾を隠し持ったふたり組のブルガリア人の男に命も狙われる。
マチスからボンドの片腕と紹介されたのは意外にもヴェスパー・リンドという名の英国秘密情報部の美貌の女性だった。
ボンドは、CIAから派遣されてきたフェリックス・レイターとも出会う。
ル・シッフルは、エジプト人のシンジケートから一晩バカラの親の権利を100万フランで買い取った。
ル・シッフルの所持金は、2400万フラン。
【バカラの簡単な説明】
2枚から3枚のカードをもらって、9点かできるだけそれに近い数にすることで勝ち負けが決まる。
絵札と10は零点。エースは1点。あとのカードは数の点。
足した場合はその一桁の数字。
カード2枚で8か9の場合は「ナチュラル」でその場でカードをひろげる。
【バカラが行われるテーブルの席順】
親 ル・シッフル
1番(親の右側)有名なギリシャ人(海運業)
2番 カーメル・ディレイン(アメリカの映画女優)
3番 デンヴァース卿夫人
4番 デュ・ポン氏
5番 デュ・ポン夫人
6番 ボンド
7番 金持ちのベルギー人シズテ氏
8番 インドのマハラジャ
9番 デンヴァース卿
10番 イタリア人のトメリ
ル・シッフルが親の席についてゲームが始まった。
ゲーム2時間後
ル・シッフル 負け越し1000万フラン
ボンド 勝ち越し2800万フラン
午前1時10分
ボンド 負け越す1600万フラン。ボンドは親のル・シッフルに負けて、すべてを失う。
ル・シッフル 3200万フラン(5000万フランまであと1800万フラン)
ボンドはフェリックス・レイターに援助される。
「マーシャル援助物資。3200万フラン。アメリカ合衆国より」
ル・シッフルの手下がボンドの席のうしろからステッキに隠した拳銃を付きつける。ボンドは勢いよく椅子に座ったまま後ろに倒れてル・シッフルの手下は逃げ出した。
3200万フランを賭けたゲームは再開される。
午前2時
ボンド「ハートの9」(愛のささやき、憎しみのささやき)
ル・シッフルは、黒のキング2枚「零」
2時半
ボンドは勝負に勝ち、7000万フランを手にする。
レイターに借りた分を引いた金額をボンドはリヨン銀行で現金にできる小切手にしてもらう。
ボンドとヴェスパーはクラブ「ロア・ガラン」で遅い夕食を取る。
ヴェスパーはなぜか冷たい態度だった。
給仕長がマチスからのメモをヴェスパーに渡し、彼女はホテルの入り口のホールへ向かう。
ヴェスパーは、ル・シッフルらに捕まり連れ去られる。
ボンドはマチスからのメモを怪しんで入り口ホールに向かうが、ヴェスパーが連れ去られるところだった。ボンドはベントレーでヴェスパーが連れ込まれたシトロエンを追跡する。
出典:https://www.jamesbondlifestyle.com/news/folio-societys-illustrated-edition-casino-royale
ボンドは、ヴェスパーなんかよこしたMを呪っていた。
ル・シッフルは、女との交換条件として4000万フランを要求してくるだろうが、ボンドは相手の話は聞くつもりはなかった。
シトロエンは、ル・シッフルが運転して助手席にはコルシカ人、ヴェスパーはやせた男と後ろの席にスカートをまくりあげて頭の上で縄を使って縛られていた。
ボンドの車は、ル・シッフルのシトロエンが後ろのトランクから道路にまいた釘のついた鎖を踏み横転。ボンドは気を失いル・シッフルと手下に捕まる。
ボンドは、敵が反撃してくることを予想して用意周到な準備を怠ったことを恨んだ。
「夜遊び荘」
ヴェスパーは、ボンドを釣るためのただの餌にすぎなかった。
ヴェスパーはコルシカ人とボンドとは別の部屋に連れて行かれた。ボンドはやせた男とル・シッフルのいる部屋にはいる。
ボンドは服を脱がされる。やせた男は籐椅子の座る部分をナイフでくり抜く。
その椅子に座るようにル・シッフルが命令する。
ボンドは尻と体の下部が椅子より下に飛び出している。
ル・シッフルは、ゴロワーズに火をつけて、カップのコーヒーをひとくち飲んだ。
ル・シッフルは、三叉になった籐の絨毯たたきをボンドが座っているイスの下から上に跳ね上げる。
ル・シッフル「どうだね、坊や。これで立場ははっきりわかったろう?」
ル・シッフル「金はどこだ」
出典:https://www.jamesbondlifestyle.com/news/folio-societys-illustrated-edition-casino-royale
拷問というものは、最初がいちばん辛いことをボンドは承知していた。
ル・シッフルはボンドがヴェスパーと食事をしている間にボンドの部屋を4人で調べ上げていたが、4000万フランの小切手は出てこなかった。
ル・シッフルは警察に知られないように、ゲームが終わったあとふたりだけでゲームをして負けてしまいロワイヤル・レゾーから姿を消したという手紙をボンドの部屋に残した。
ル・シッフル「ボンド、その大事なものにさよならを言えよ」
男が部屋に入ってきて、ル・シッフルに拳銃を向ける。お前を消すためにスメルシュから派遣されてきたと説明した。
男は、ル・シッフルの額を撃ち抜いた。
ボンドを殺せという命令は受けていないので男はボンドを殺さなかった。
その代わりに、その男はボンドがスパイである印として右手の甲にMの字(ロシア語のキリル文字「Ш」:スメルシュの烙印のつもり)を逆さにしたような文字をナイフで切りつけて去っていった。
ボンドは気を失った。
ロワイヤルの療養所
3日目の朝、血みどろの悪夢にふるえながら汗をぐっしょりかいてボンドは目をさました。
ル・シッフルの用心棒はスメルシュの男にふたりとも殺されていた。
Mがじかにマチスに連絡をしてきた。Mが外の人間に連絡することは考えられない。
S課の課長は直々にロワイヤル・レゾーまで来て入院中のボンドのために看護婦をイギリスから呼んだり、横転したボンドのベントレーを修理に出したりさまざまな指示を出して事件の後処理を担当した。
課長はヴェスパーにはボンドの世話をするように命令した。
4000万フランの小切手は、ボンドが宿泊していたホテルの部屋の入り口ドアのナンバープレートの裏側に隠しておいた。
ホテルの3階にいたムンツ夫婦も逮捕された。
スメルシュから派遣された男はその後の足取りがまったくつかめなかった。
ボンドは辞職を考えていた。
ボンド「なぐられたとき、ふっと生きているのはいいなと思ったんだ」
ボンド「ここ数年間に、わたしは悪人をふたり殺した」
ボンドがダブル零の番号をもらうきっかけの殺人のエピソード。
1.ロックフェラー・センターでライフル射撃により日本人の暗号解読の専門家を殺害。
2.ストックホルムで二重スパイのノルウェー人をアパートの寝室でナイフを使って殺害。
ヴェスパーは、ボンドに花を届けに来ていたが、ボンドは受け取らなかった。
八日目の朝。
ボンドは体力が回復してから、ヴェスパー・リンドと会おうと思っていた。
ボンドは、ヴェスパーに会って、誘拐された日のことをたずねた。
メモをもらって、ホテルの出入り口のホールで車が待っていると言われて車に近づいたところでル・シッフルの手下に捕まった。
夜遊び荘では、手足を縛られたまま椅子に座って手下に背を向けて座っていただけで何もされなかった。
ヴェスパーは、毎日ボンドの見舞いに訪れた。
Mへの報告書。
ヴェスパー・リンドが誘拐されたがボンドは詳しいことは書かなかった。
横転したボンドのベントレーは、ルーアンの車体屋で修理された。
3週間経ち、ボンドは病院を退院することになった。
夏の季節になっていた。
ボンドとヴェスパーは、海辺の宿へ向かう途中で、黒いセダンがふたりを尾行していた。
「禁断の果実館 貝とフライ」
カジノの理事がヴェスパーにこの宿を薦めてくれた。
宿のベルソワ夫妻。
亭主のベルソワは片腕のない中年男でロワイヤルの警察署長の友達だった。
ベルソワ夫人は、ととのった丸顔のやさしい目つきの女性。
ヴェスパーはダブルの部屋。ボンドはとなりの角の部屋。
ボンドはヴェスパーを抱きしめ、愛していると口づけを交わすがヴェスパーはボンドを突き放してしまう。
宿から浜辺にでて、ボンドはヴェスパーのことを考える。
ロンドンに帰ったら、別れてしまうだろうと思っていたが、ここ2週間で考えが変わってきた。
ヴェスパーといると気が楽だし、束縛されないということに気がついた。
ヴェスパーは自分の本性を人に見せないし、心の奥底に入れてもらいない密室のようなものがある。
ボンドは決心した。
ボンドが部屋に帰ると荷物が片付けてあり、浴室の洗面台には歯ブラシなどとともにネブムタール系の睡眠薬の小瓶があった。
ヴェスパーは、ボンドと夕食をとりながら、
「人間なんて、みんな離ればなれの島みたいなものよ。本当にふれあうことはできないのよ。どんなに近づいても、やっぱりちゃんと離れているの。結婚して50年たっても、やっぱりそうなのよ」
と話す。
翌朝、ボンドは表の浜にでる。
ボンドはヴェスパー・リンドにプロポーズを決意する。
ボンドは、宿に帰ってきて電話ボックスから出てきたヴェスパーと鉢合わせする。
ヴェスパーは、マチスに洋服屋の友達にまた洋服を頼めないか電話をしていたとボンドに言い訳をする。
ふたりの恋が真の姿でいたのは、それが最後になってしまった。
ふたりの間の空気はますますいやなものになっていった。
昼食のときに、ヴェスパーの顔は紙のように白く、恐怖の表情もあらわにボンドの肩越しにうしろの方を見つめている。
ボンドの後ろの席にいたのは黒い眼帯をした男だった。紐で縛るのではなく片眼鏡のように眼窩にはめ込むものをした中年の男だった。
ヴェスパーは頭が痛いからと部屋に引き込んでしまった。
ボンドはヴェスパーがどこに電話をしていたのか調べるとパリのアンバリッド局の番号だった。
四日目 土曜日
ヴェスパーは、ロワイヤルに薬があると言って出かける。
帰ってきたヴェスパーは、はしゃごうとしたりするが突然泣き出してしまう。
ヴェスパーは、朝早くまたパリに電話をかけているようだった。
日曜日
再び、黒い眼帯の男が宿に現れる。
マチスにプジョーのナンバーから人物を割り出してもらう。
名前はアドルフ・ゲトラー。スイスで時計販売の商売をしている人物だった。
ふたたび、その男が現れたときには、ヴェスパーは食事の途中で部屋に戻ってしまった。
ボンドは食事を終わらせると彼女の部屋に入れてもらい、彼女に事情を話してくれるようにボンドは説得してみた。
ボンドは、ヴェスパーに結婚を申し込もうと考えていると話すと彼女は泣き出してしまった。
ふたりは最初の晩のような親密な雰囲気を取り戻した。
出典:https://www.jamesbondlifestyle.com/news/folio-societys-illustrated-edition-casino-royale
ふたりはヴェスパーの部屋で愛し合う。
ヴェスパー「わたしを見て。あなたをよく見せて」
ヴェスパー「おやすみ。わたしのいちばん大事なひと」
翌朝
ヴェスパー・リンドは、睡眠薬を飲み自殺した。
彼女はイギリス空軍にいたポーランド人の恋人を人質に取られて、ソ連の二重スパイだったと書かれた遺書を残す。
ボンドに出会って恋をして、ボンドからいろいろ聞き出せと命令されたが断ったためスメルシュの怒りを買い、ボンドと自分を監視するために捜査員が派遣されることになってしまった。
ひとりで南米へ逃げて、ボンドの子供を生み育てて新しく人生をやり直したかったと記してあった。
ボンドの目はうるんでいた。その目をふく。
ボンドはもう、彼女をただのスパイとしか考えていかった。
ボンドは本部に連絡すると3030は二重スパイだったと報告した。
007原作小説:長編第1作「007/カジノ・ロワイヤル」の小説のテーマ
「007/カジノ・ロワイヤル」は英米関係の問題を扱っており、西側諸国の防衛において現実的に米国が中心的な役割を果たしていることが反映されている。
歴史学者のジェレミー・ブラックは、1951年に英国諜報部MI6の2人のメンバー、ガイ・バージェスとドナルド・マクリーンがソ連に亡命した事件(「ケンブリッジ・ファイブ」)が、米国の諜報界で英国諜報部が低く見られていることに大きな影響を与えたと指摘しています。
原作者のフレミングはこのような英米両国間の緊張関係を認識していたが、彼の原作小説のなかではそれをあまり取り上げておらず、ボンドとライターの厚い友情は現実の米英関係を反映していない。
ケンブリッジ・ファイブ(Cambridge Five)
ケンブリッジ・ファイブとは、第二次世界大戦中からソ連に情報を流していたイギリスのスパイ組織。1930年代から少なくとも1950年代初頭まで活動していたが、スパイ容疑で起訴されたメンバーはいなかった。
ガイ・バージェス
出典:https://www.smithsonianmag.com/articles/student-and-spy-how-one-mans-life-was-changed-cambridge-five-double-agents-180961732/
本名:ガイ・フランシス・ド・モンシー・バージェス
(Guy Francis de Moncy Burgess)
生年月日:1911年4月16日 – 1963年8月30日 52歳没
イギリスの外交官、ソ連のスパイで、1930年代半ばから冷戦時代の初期に活動したスパイ組織ケンブリッジ・ファイブの一員だった。
中流階級の家庭に生まれたバージェスは、イートン・カレッジ、ダートマス王立海軍大学、ケンブリッジのトリニティ・カレッジで教育を受けた。ケンブリッジで左翼政治に興味を持ち、イギリス共産党に入党した。また、ケンブリッジに入学してからは同性愛者であることを隠すことはなくなった。1935年、後に二重スパイとなるハロルド・”キム”・フィルビーの推薦により、ソ連情報委員会に採用された。ケンブリッジ大学を卒業後、BBCでプロデューサーとして働き、MI6の諜報員として短期間勤務した後、1944年に外務省に入省した。
外務省では、アーネスト・ベヴィン外務大臣代理のヘクター・マクニールの秘密秘書官として勤務した。この役職によりバージェスは、1945年以降の重要な時期に、イギリスの外交政策のあらゆる側面に関する秘密情報にアクセスすることができ、数千の文書をソ連諜報部に渡し、報酬を得ていたと推測される。1950年にはワシントンの英国大使館の二等書記官となったが、度重なる不品行で帰国させられた。この時点では疑われてはいなかったが、1951年5月、ドナルド・マクリーンの正体がアメリカの調査でソ連のスパイであることが明らかになりかけたことによりマクリーンがモスクワに亡命する際、バージェスも同行した。
1956年、モスクワで行われた短い記者会見に、ドナルド・マクリーンとともに登場し、「ソ連と西側の関係を改善するためだった」と語り、ソ連の諜報部員であることは否定した。
1963年、イギリスに帰国することを希望していたが過度の飲酒により健康を害しモスクワで死去。
バージェスの人生は、しばしば舞台や映画でドラマ化されてきたが、特に1981年のジュリアン・ミッチェル作の舞台劇『アナザー・カントリー』と1984年のルパート・エヴェレット、コリン・ファース出演の映画化作品は有名。
ドナルド・マクリーン
出典:https://alchetron.com/Donald-Maclean-(spy)
本名:ドナルド・デュアート・マクリーン(Donald Duart Maclean)
生年月日:1913年5月25日 – 1983年3月6日 69歳没
ソ連に政府の機密を伝えたイギリスの外交官。1930年代半ばから冷戦時代の初期に活動したスパイ組織ケンブリッジ・ファイブの一員だった。
ケンブリッジ大学在学中(ほぼ同時期に共産党に入党)に左翼的な考えを公言し、ソ連情報委員会に採用されて諜報部員となる。大学時代はラグビー選手としても活躍した。
1938年、パリ大使館の三等書記官となる。その後、ロンドンを経て、1944年から1948年までワシントンD.C.に派遣され、一等書記官に昇格した。この時期、ドナルド・マクリーンは原子力問題に関する合同政策委員会の書記を務めていた。マクリーンは原子爆弾の技術的データを送信することはなかったが、その開発と進捗状況、特に米国が利用できるプルトニウム(ファットマン爆弾に使用)の量について報告した。
1948年、マクリーンは在カイロ英国大使館の事務局長に任命された。この頃、二重生活がマクリーンの精神面に影響を及ぼし始めていた。彼は酒を飲み、喧嘩をし、自分の二重生活について話すようになった。このような一連の出来事は、アメリカの諜報機関がヴェノナ文書によってマクリーンをソビエトの諜報員として特定しようとしていたため、マクリーンがイギリスに戻るための方法として仕組まれた可能性がある。
エジプトに赴任した後、外務省のアメリカ局長に就任した。マクリーンがソ連に送った暗号文章はアメリカの捜査によって解明された。キム・フィルビーはソ連情報委員会に報告し、ソ連情報委員会はマクリーンの国外逃亡を指示する。
1951年5月25日、偶然にもマクリーンの38回目の誕生日の日に迎えにきたガイ・バージェスとともにモスクワに亡命。
その後、マクリーンはロシア語を学び、博士号を取得し、西側の経済政策やイギリスの外交の専門家として活躍し、尊敬を集める市民となった。
妻のメリンダ・マクリーンとその子供たちは、彼の亡命から1年以上たった後にモスクワでマクリーンと合流した。
1983年3月6日、モスクワで死去。
ケンブリッジ・ファイブを構成する5人のスパイのうち、マクリーンはよく知られていた存在ではないが、外務省の上級外交官という立場から、最も価値のある情報をソ連に提供し続けることが出来た。
アメリカでは、「原子力に関するアメリカ・イギリス・カナダの計画、アメリカ・イギリスの戦後計画、ヨーロッパにおける政策の分野において、マクリーンの亡命の日までのすべての情報は間違いなくソ連の手に渡った」と結論付けている。
ハロルド・”キム”・フィルビー
出典:https://www.imdb.com/name/nm0679921/
本名:ハロルド・エイドリアン・ラッセル・ “キム”・フィルビー
(Harold Adrian Russell “Kim” Philby)
生年月日:1912年1月1日 – 1988年5月11日 76歳没
イギリスの諜報員でありながらソ連の二重スパイであった人物。1963年、第二次世界大戦中から冷戦初期にかけてソビエトにイギリスの機密を漏洩したスパイ組織「ケンブリッジ・ファイブ」の一員。5人の中で、フィルビーはソ連に秘密情報を提供することに最も成功した人物と考えられている。
英国領インドに生まれたフィルビーは、ウェストミンスター・スクールとケンブリッジのトリニティ・カレッジで教育を受けた。1934年にソ連情報委員会に採用された。ケンブリッジ大学を卒業後、フィルビーはジャーナリストとして、スペイン内戦とフランスの戦いを取材した。
1940年、イギリスの秘密情報局(SISまたはMI6)で働き始める。第二次世界大戦の終わりには、彼は高官に昇進していた。1949年、フィルビーはワシントンの英国大使館の一等書記官となり、米国の諜報機関との連絡係の責任者を務めた。
フィルビーはまた、スパイ容疑のかかったドナルド・マクリーンとガイ・バージェスの2人に容疑がかかっていると警告した責任者でもあり、2人はその後1951年5月にモスクワに逃亡した。
マクレーンとバージェスの亡命により、フィルビーも疑惑を持たれMI5からバージェスとの関係や諜報部員としての活動について尋問を受けるがすべて否定する。1951年7月にMI6を辞職することになる。その後、レバノンのベイルートでジャーナリストとして活動を始めるが、ソ連情報委員会は彼との連絡を断つ。
ところがフィルビーのスパイ容疑は思わぬところから発覚する。1961年、KGBの第一首席総局の少佐であるアナトリー・ゴリツィンは、ヘルシンキの外交官職から米国に亡命。ゴリツィンは、アメリカとイギリスの諜報機関内にいるソ連のスパイの存在をCIAに暴露。ゴリツィンは、米国での暴露に続いて、さらなる尋問のために英国SISに送られた。MI5から異動したばかりのMI6の長官であるディック・ホワイトは、フィルビーをマクリーンやバージェスに続いて「第三の男」なのではないかと疑っていた。ゴリツィンはフィルビーの役割についてホワイトの疑惑を確認し始めた。
1963年1月、ついにソ連のスパイであることが判明したフィルビーは、ベイルートから姿を消しモスクワに亡命。7月30日、ソ連はフィルビーの政治亡命を正式に認めると発表する。
フィルビーは1988年に心不全で亡くなるまでモスクワで暮らした。
フィルビーは、女性にはよくモテ4回の結婚を繰り返し、ケンブリッジ・ファイブのメンバーのひとり、ドナルド・マクリーンの妻メリンダとは一時期不倫関係にあった。
フィルビーをモデルにした小説は数多く執筆されたがジョン・ル・カレの1974年の小説「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」(原題:Tinker Tailor Soldier Spy)は特に有名。フィルビーのような上流階級の裏切り者が登場する。この小説は、1979年のテレビミニシリーズ、2011年にはゲイリー・オールドマン主演で映画化(『裏切りのサーカス』)、1988年と2009年には脚色されラジオで放送された。
映画『裏切りのサーカス』予告編
**
*原作小説「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」は物語が複雑なので映画『裏切りのサーカス』を鑑賞する場合には事前に原作の「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」は必読。
アンソニー・ブラント
出典:https://www.esquire.com/entertainment/tv/a29813130/anthony-blunt-kgb-soviet-spy-the-crown-season-3-true-story/
本名:アンソニー・フレデリック・ブラント(Anthony Frederick Blunt)
生年月日:1907年9月26日 – 1983年3月26日 75歳没
イギリスの著名な美術史家であり、1964年、訴追免除の申し出を受けて、ソ連のスパイであったことを自供した。
牧師であったブラントの父親は、パリに赴任し、アンソニーの幼少期の数年間、家族をフランスの首都パリに移住させた。幼いアンソニーはフランス語が堪能になり、幼少期に体験した強烈な芸術文化への興味は生涯継続され、その後のキャリアの基礎となった。
その後、ブラントはロンドン大学美術史教授、コートールド美術研究所所長、王室の絵画の調査官を務めた。1967年に出版されたフランスのバロック画家ニコラ・プッサンの学術論文は、現在でも美術史の分水嶺として広く認められている。1953年に出版された彼の教育テキスト兼参考文献「Art and Architecture in France 1500–1700」は、1999年にリチャード・ベレスフォードによって若干改訂されて第5版を出版し、この分野の最高の文献とみなされるようになった。
ブラントは、1930年代のある時期から少なくとも1950年代初頭までソ連のために働いていたケンブリッジ大学出身のスパイグループである「ケンブリッジ・ファイブ」の「4人目の男」と考えられていた。ガイ・バージェスと同様に、ブラントも同性愛者であると言われている。ブラントは、バージェスに紹介されたソ連情報委員会のスカウトマンと出会い、採用されたと語っている。
彼のスパイ活動の最盛期は第二次世界大戦中であり、イギリス政府のドイツ国防軍の計画に関する情報などをソ連情報委員会に伝えた。
1963年、MI5はブラントがケンブリッジ時代にスカウトしたアメリカ人、マイケル・ストレイトからブラントのスパイ活動を知ることになる。ブラントは1964年4月23日にMI5に告白し、その後すぐにエリザベス2世に知らされた。
ブラントは完全な告白の見返りとして、イギリス政府は15年間だけではあるが、彼のスパイ活動を公式秘密とし、彼に訴追から完全に免除することに同意した。
長年にわたってブラントが二重スパイであることは秘密にされていたが、1979年11月、マーガレット・サッチャー首相はブランドの裏切り行為に対する処分の甘さに憤り二重スパイであることを公表。ブラントはナイトの爵位を剥奪された。
1983年、ブラントはロンドンの自宅で心臓発作により死去。
2009年7月23日にようやく公開されたブラントの回顧録には「当時のケンブリッジの雰囲気は、反ファシスト活動に対する熱意はとても大きくまた激しく、私は人生最大の過ちを犯してしまった」と記されている。
ジョン・ケアンクロス
出典:https://alchetron.com/John-Cairncross
本名は:ジョン・ケアンクロス(John Cairncross)
生年月日:1913年7月25日 – 1995年10月8日 82歳没
イギリスの公務員で、第二次世界大戦中に情報将校、スパイとなった人物である。ソ連の二重スパイとして、ドイツ軍とソ連軍の間で行われたと「クルスクの戦い」に影響を与えた情報をソ連に流したと言われる。また、翻訳家、文学者、ノンフィクション作家としても有名である。
彼のスパイ活動の最も重要な点は、第二次世界大戦の主要な戦闘でソ連がドイツ軍との戦闘で勝利をおさめることが出来るよう重要機密をソ連に流していたことである。また、彼はアメリカが核爆弾を開発している情報をソ連に流していたかもしれないと言われている。ケアンクロスは1964年にMI5のスパイ疑惑の主任研究員であるアーサー・S・マーティンに秘密裏にソ連のスパイだったことを告白し、1979年12月にはサンデー・タイムズの2人のジャーナリストに限定でスパイであったことを告白をした。ケアンクロスは訴追免除を与えられた。
ワシントン・ポスト紙によると、ジョン・ケアンクロスがケンブリッジ・ファイブの「5番目の男」であると示唆されていたが、1990年にソ連の二重スパイ、オレグ・ゴルディエフスキーが告白するまで確認されなかったという。1994年に出版された元KGB諜報員ユーリ・モディンの著書「My Five Cambridge Friends Burgess, Maclean, Philby, Blunt, and Cairncross by Their KGB Controller」で再確認された。
ケアンクロスは、スコットランドのレスマハゴウで、鉄工所経営者の父アレクサンダー・カークランド・ケアンクロス(1865-1947)と小学校教師だった母エリザベス・アンドリュー・ウィシャート(1875-1958)の4女4男の末子として生まれた。兄3人は教授となり、うち1人は経済学者として有名なアレクサンダー・カークランド・ケアンクロス(別名アレック・ケアンクロス)卿である。
アレック卿はジョンが「喧嘩っ早い若者で、議論するのが得意ではなく、割と簡単に物事に腹を立てる」と回想している。
ケアンクロスは、ケンブリッジ大学でフランス語とドイツ語を学び英国公務員試験の結果は1位を獲得する。ケアンクロスははじめに外務省に勤務し、その後財務省、内閣府と移り、その後ランカスター公領の首相であるハンキー卿の秘書官として働く。
外務省に勤務していた頃(1936年頃)、イギリス共産党のジェームズ・クラグマンからのソ連情報委員会のスパイとしてスカウトされた。
ケアンクロスは、第二次大戦中の1942年から1943年にかけて暗号解読研究所のあるブレッチリー・パークで暗号解読の研究に従事していた。1943年には、MI6本部に所属し、極秘文書を手に入れることが出来るようになる。ケアンクロスは解読された文章を秘密ルートを使ってソ連に流していた。ロシアの公文書館によると1941年から1945年の間に、ケアンクロスはソ連に5,832の文書を提供した。
1944年10月、ケアンクロスは対外情報部のソ連指導者に「我々の友人が私の助力を注目に値すると判断したことを嬉しく思うし、ソ連の土地を侵略者からほぼ完全に浄化することになった勝利に私が何か貢献したことを誇りに思う」と語っている。1945年3月、彼は年間1,000ポンドの年金を与えられたが、受け取ることは拒否している。
1951年9月、ケアンクロスはイギリスの防諜機関からマクリーンと共産党との関係について尋問を受けた。ケインクロスは外務省で働いていた時にはマクリーンに挨拶するだけで、卒業後はマクリーンと一切連絡を取っていないと尋問官には説明した。安全のため、ソ連公邸はケアンクロスとの連絡を一時的に停止し、適切な信号で毎月の状況を報告し続けることを許可し、1952年1月23日にフォローアップの会合を計画した。ソ連は、他国での生活中の資金、文書、通信手段などケアンクロスの亡命計画を立てた。
公式報告書は、1951年と1952年に行われたケアンクロスの尋問では「スパイ容疑に基づく証拠を出せなかった」と結論づけている。
ケアンクロスは、ケンブリッジ・ファイブの他の4人とは独立してスパイ活動を働き、彼らの上流階級の経歴や好みなどで共感することはなかった。彼はケンブリッジのアンソニー・ブラント、ガイ・バージェスを社交的に知っていたが彼ら2人を嫌っていた、外務省のドナルド・マクリーンとMI6のキム・フィルビーもソ連に情報を渡していたことは知らなかったと主張している。
ケアンクロスは1952年末に公務員を辞職し、年金を失効していた。元KGB諜報員ユーリ・モディンからいくらかの財政的援助を受けてアメリカに渡り、シカゴとオハイオ州クリーブランドの大学で教鞭をとった。
1981年、マーガレット・サッチャー首相はケアンクロスがソ連の諜報員であり、回顧録を書きながらイングランド西部に妻と住んでいると議会に報告した。1990年にKGBからの亡命者オレグ・ゴルディエフスキーの告白によってケアンクロスが「5番目の男」として広く知られるようになった。ケアンクロスは1995年、アメリカのオペラ歌手ゲイル・ブリンカーホフと結婚するまで南フランスに隠棲していたがイギリスに帰国。同年末に脳卒中で倒れ、82歳で死去。
他の多くのスパイとは異なり、ケアンクロスはソ連に情報を流したことで刑事責任を問われることはなかった。
ケアンクロスの自伝『エニグマ・スパイ』は1997年に出版された。ベネディクト・カンバーバッチ主演の映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』(2014年)では、アレン・リーチがブレッチリー・パークの暗号解読者としてケアンクロスを演じています。
映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』予告編
007原作小説:長編第1作「007/カジノ・ロワイヤル」のプロットの着想
原作小説「007/カジノ・ロワイヤル」は、フレミングが戦時中に所属していた海軍情報部で起きた事件や、彼が体験した出来事や事件から着想を得て執筆されました。ボンドとル・シッフルのカジノでの対決については、フレミングがアメリカに向かう途中のポルトガル旅行で海軍情報部長のジョン・ヘンリー・ゴドフリー少将とともにエストリルのカジノへ遊びに行きました。ポルトガルは当時中立国であったため、エストリルには戦時中さまざまな国のスパイやエージェントが多く集まっていました。フレミングはシュマン・ド・フェールをプレイしているテーブルでドイツのチーフ・エージェントに一掃されたと主張していました。ゴドフリー少将はフレミングの主張とは違い、フレミングはポルトガルのビジネスマンとしかプレイしておらず、その後ドイツのエージェントとの勝負を空想していたと語っています。
ロワイヤル・レゾーでボンドを殺そうとして失敗した事件(第6章「麦わら帽子の男ふたり」)は、フレミングがドイツ国首相でヒトラー内閣では副首相を務めた政治家のフランツ・フォン・パーペン(1879年10月29日ー1969年5月2日)がソ連のエージェントによる暗殺未遂事件(1942年)のエピソードから着想を得ています。パーペンもボンドも、エージェントのブルガリア人が実行した暗殺計画は街路樹があったおかげで爆風から生き延びることができた。
底を切り抜いた椅子に縛り付けられたボンドの性器が叩きつけられる拷問シーン(第17章「ねえ、きみ」)は、マンドリンの鋼鉄製の弦を使って戦時中、イギリスの諜報員の睾丸を半分に切り裂くというフランスとモロッコの拷問技術「パッセ・ア・ラ・マンドリン」のエピソードから着想したものでした。
007原作小説:長編第1作「007/カジノ・ロワイヤル」の映像化作品
原作小説の「007/カジノ・ロワイヤル」は、「ジェームズ・ボンド」シリーズの小説の中で唯一、3度映像化された作品です。
第1作目:1954年に米CBSの連続スリラー番組「クライマックス!」でテレビ放映(『カジノ・ロワイヤル』)される。
バリー・ネルソン主演のテレビ映画『カジノ・ロワイヤル』(1954年)
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第2作目:1967年にデヴィッド・ニーヴン主演のコメディ映画『007/カジノロワイヤル』が製作される。
映画『007/カジノロワイヤル』(1967年)のあらすじとキャストは?
第3作目:2006年にはイオン・プロダクションが製作したダニエル・クレイグ主演の第21作目『007/カジノ・ロワイヤル』が公開される。
映画『007/カジノ・ロワイヤル』のあらすじとキャストは?
『007/カジノ・ロワイヤル』で使われたボンドのパスポートの生年月日は、原作小説『007/カジノ・ロワイヤル』が英国で出版された4月13日にちなんだもの。
Zoom in on that date of birth…
007’s CASINO ROYALE passport shows 13th April, a day chosen to honour the publication date of Ian Fleming’s Casino Royale book.#60yearsofBond pic.twitter.com/ZVVPydFplR
— James Bond (@007) April 13, 2022
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007原作小説:長編第1作「007/カジノ・ロワイヤル」の書籍と電子書籍
紙書籍版
「007/カジノ・ロワイヤル」新版(創元推理文庫)
訳:井上 一夫
発売日:2006年6月
ページ数:267ページ
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電子書籍版
「007/カジノ・ロワイヤル」新版(創元推理文庫)
訳:井上 一夫
発売日:2017年9月1日
対応端末:電子書籍リーダー、Android、iPhone、iPad、デスクトップアプリ
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紙書籍版
「007/カジノ・ロワイヤル」新訳(創元推理文庫)
訳:白石 朗
発売日:2019年8月22日
ページ数:288ページ
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電子書籍版
「007/カジノ・ロワイヤル」新訳(創元推理文庫)
訳:白石 朗
発売日:2019年8月22日
対応端末:電子書籍リーダー、Android、iPhone、iPad、デスクトップアプリ
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参照:
電子書籍版
「007/カジノ・ロワイヤル」新版(創元推理文庫)
訳:井上 一夫
マイク・マールのトリビュートカバー集第1弾
長編第1作「007/カジノ・ロワイヤル」
For all you 007 fans! Here’s the first in a series of tribute covers for the original Fleming novels. Here’s the cover and the entire jacket. @jamesbondlive @JBVisualArchive #JamesBond #bookcover @TheIanFleming @penguinrandom @007dossier #casinoroyale pic.twitter.com/5XVFvtz8Za
— Mike Mahle (@MikeMahle) October 14, 2021
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記事作成日:2022/03/15
最終更新日:2022/04/26