【2代目ジェームズ・ボンド】ジョージ・レーゼンビーのプロフィールやキャリアは?

【2代目ジェームズ・ボンド】ジョージ・レーゼンビー

 

2代目ジェームズ・ボンドとして「007」映画シリーズに1作品ながら出演したジョージ・レーゼンビーのプロフィールやキャリアなど調べてみました!

 

ジョージ・レーゼンビーのプロフィール

本名:ジョージ・ロバート・レーゼンビー(George Robert Lazenby)

生年月日:1939年9月5日(81歳)

出身地:オーストラリア・ニューサウスウェールズ州クィーン・ベイヤン

国籍:オーストラリア

身長:188cm

 

 

ジョージ・レーゼンビーの生い立ち

ジョージ・ロバート・レーゼンビーは、1939年9月5日にニューサウスウェールズ州ゴールバーンで鉄道労働者のジョージ・エドワード・レーゼンビーとシーラ・ジョアン・レーゼンビーの間に生まれました。

彼は初等教育をゴールバーン公立学校で受けて、1954年までコールバーン高校に通っていました。彼の妹は、踊りの上手なダンサーでした。彼は若い頃に腎臓が半分しか残らない手術を受けて、18カ月間入院しました。

レーゼンビーは、14歳の時に家族とともにゴールバーンからクィーン・ベイヤンに移り住み、父親はそこでお店の経営をはじめました。高校卒業後、キャンベラにあるモリス・モーター車で車のセールスマンになりました。

彼はスキーが得意でスキーのインストラクターをしながら、いくつかの競技に参加していました。また、地元のバンドに参加してベースギターを演奏していました。

オーストラリア軍に所属し、軍曹の階級を得てマーシャルアーツのインストラクターもしていました。

 

 

ジョージ・レーゼンビーのキャリア【ファッションモデル】

除隊後、恋した女性の後を追って1964年にロンドンに移り住みます。フィンチリーで中古車のセールスマンをして、その後バークレーンで新車販売のセールスマンをしていました。ある日、彼はフリーランスの写真家にモデルの仕事をしてみないかと誘われ初めてモデルとしてカメラの前に立ちました。

レーゼンビーはファッションモデルに転身し、タレントスカウトマンにファッションモデルになるよう説得されました。イギリスを拠点とするエージェントの雑誌PBに登場するとモデルとしてのキャリアのペースは上がり始めて1年でヨーロッパの最高のギャラを稼ぐファッションモデルのひとりとなりました。レーゼンビーは、フライ社のチョコレートバーのテレビCMで広く知られるようになりました。

1966年、年間最優秀モデルに選ばれました。1967年、28歳の時に40,000ポンド以上を稼いだと報じられています。

モデルとしての彼のキャリアは開花し、レーゼンビーはすぐにイギリス、ヨーロッパの看板で親しみやすい顔となりました。彼は演技に挑戦する前に数多くのテレビCMに出演しました。

レーゼンビーの唯一の演技経験は、1965年のイタリア映画「タンジールのスパイ」で歩くシーンでした。

 

 

ジョージ・レーゼンビーのキャリア【2代目ジェームズ・ボンド】

1968年、ショーン・コネリーがボンド役の降板を発表した後、プロデューサーのアルバート・R・ブロッコリは理髪店でヘアカットしている最中に始めてジョージ・レーゼンビーに出会いました。ブロッコリは後にフィッシュ・アンド・チップスの「ビッグフライ」のCMで彼を見て、彼がボンドになる可能性があると感じ、スクリーンテストを受けてみないかと招待しました。

レーゼンビーは、スクリーンテストのためにショーン・コネリーが愛用しているテーラーから最も高価なオーダーメイドのスーツを購入したり、ボンドらしく見えるようにロレックスの時計を購入したりしました。魅力的でハンサムなモデルのレーゼンビーは、ボンド役獲得のためにアンソニー・ロジャースやロバート・キャンベル、ジョン・リチャードソンなどの有名な俳優とスクリーンテストで戦わなければなりませんでした。レーゼンビーが007としてパフォーマンスを行っているときのオーディション映像は間違いなく印象的で、元陸軍軍曹の戦闘シーンでのアクションは最も迫力がありました。レーゼンビーのボンドは残忍なエッジを持ち、レーゼンビーがオーディション中にスタントマンの鼻をへし折ったとマスコミに噂が流れました。

プロデューサーのアルバート・R・ブロッコリとハリー・サルツマンが、レーゼンビーを新しい007役にと決定したとき、彼らはまったく違う何かに賭けていました。レーゼンビーはダイアナ・リッグとテリー・サヴァラスをはじめ、服装と振る舞いを指導するために初めて監督(ただしボンド映画での編集担当歴は長い)を担当したピーター・ハントを含めた優れたキャスト・スタッフによってサポートされていました。

あとひとつハードルがありました。ブロッコリとサルツマンはキャスティングの選択が正しかったと確信していましたが、スタジオからゴーサインを得るにはレーゼンビーと彼の支持者から多くの説得力が必要でした。

『女王陛下の007』の公開の少し前に、レーゼンビーは彼にとって非常に有利な条件でのあと6本のボンド映画への出演契約を受けましたが、彼はジェームズ・ボンド役を降板することを発表しました。レーゼンビーのマネージャー、ローナン・オライリーはスパイ映画は1970年代にはもう古いと確信しレーゼンビーにボンド役を降板することを勧めていました。アメリカでは、『卒業』(1967)や『イージー・ライダー』(1969)などのアメリカン・ニューシネマと呼ばれるベトナム戦争に対する若者層を中心にした反体制的な新しい感覚の映画が公開され話題になっていました。レーゼンビーは『イージー・ライダー』を監督したデニス・ホッパーの演出に大変、感銘を受けていました。また、レーゼンビーはアーサー・ペン(『俺たちに明日はない』(1967))、ジョン・シュレシンジャー(『真夜中のカーボーイ』(1969))、ピーター・イエーツ(『ブリット』(1968))などの監督たちにも興味を示していました。『荒野の用心棒』(1965)の大ヒットによりマカロニ・ウエスタンが流行するなかでセルジオ・レオーネ監督から出演依頼(『夕陽のギャングたち』)がありましたが、アルバート・R・ブロッコリに「君は所詮マカロニ・ウエスタン止まりだよ」と揶揄されたのを思い出したのかレオーネ監督からの出演依頼を断ってしまいました。

映画が公開されるとレーゼンビーの演技に対してさまざまな批判的意見(「体格が良いだけ」、「声が大きすぎる」、「セリフが伝わらない」など)がありました。ボンド映画の世界では論争が起こっていましたが、レーゼンビーは『女王陛下の007』のパフォーマンスでゴールデングローブ賞新人賞にノミネートされました。

ロジャー・ムーアは、2007年に発売された『007/黄金銃を持つ男』のDVDの解説で『女王陛下の007』は優れた作品だったと言及しています。レーゼンビーは、レストランでショーン・コネリーと食事をしながら「君の演技は良かったよ」と言われました。

プロデューサーのアルバート・R・ブロッコリは、レーゼンビーの映画公開後の態度が不愉快であることに気がついたと認めました。

1969年、ボンド役降板後、レーゼンビーはダラム大学の由緒あるカレッジでドラマの研究を始めたと言われています。当時このことは報道されませんでしたが。

 

 

ジョージ・レーゼンビーのキャリア【ボンド後】

1971年、サイ・エンフィールド監督のアクション映画『ユニバーサル・ソルジャー』に傭兵役で出演しました。1972年にはサスペンス・ホラーのイタリア映画『Who Saw Her Die?』でアニータ・ストリンドベリと夫婦役で共演しました。

1973年に香港のゴールデン・ハーベスト社のプロデューサー、レイモンド・チョウの招きで香港へ行きました。彼が製作予定のブルース・リー主演の『死亡遊戯』に出演するためでした。ブルース・リーの急死により脚本は変更され、1978年に追加撮影をして完成した『死亡遊戯』にはレーゼンビーが出演する機会はありませんでした。

『死亡遊戯』に出演することができずに代わりにゴールデン・ハーベスト製作の香港映画『暗黒街のドラゴン電撃ストーナー』(1974年)や香港・オーストラリア合作映画『スカイ・ハイ』(1975年)に出演し、どちらも彼の得意なアクションが存分にいかされて興行的にも成功しました。ブルース・リー亡き後のゴールデン・ハーベストの国際的マーケットのアピールに一役買いました。また、ブルース・リーの幻の共演者としてブルース・リーのドキュメンタリー番組にも頻繁に登場しました。

1970年代半ばには、母国オーストラリアで撮影されたテレビ映画、警察ドラマシリーズに出演しました。また、モデルの仕事も再開し数多くのテレビCMに出演しました。

1970年代後半、レーゼンビーはハリウッドに移り住み、演技のレッスンを受け、キャリアアップを図りました。

1978年、「007」シリーズのプロデューサー、アルバート・R・ブロッコリはレーゼンビーのキャスティングを16年間で最大のミスだったの述べています。彼は映画スターとしての成功に対処出来なかった。彼は傲慢だった。ボンドとしての身長と外見は持ち合わせていたが、共演者と上手くやっていくことはできなかったと語っています。ショーン・コネリーはレーゼンビーに対して「私は長年ジョージを知っているが、彼の性格は傲慢ではない。カビー・ブロッコリと同じ意見ではない」と語っています。

レーゼンビーは、「もとに戻ろうとしているが、それは簡単なことではない。私は愚かな行動をしたことを認める。しかし、それは私の初めての映画出演だったことを覚えていてください。今、私に必要なのはチャンスです」と語っています。

ボンド後のキャリアでは、レーゼンビーはTV映画、コマーシャル、TVシリーズ、1990年代のTVドラマシリーズ「エマニュエル」、いくつかのボンド映画のパロディ、テレビのゲスト出演、アニメーション映画での声の出演でいくつかの役を演じてきました。

2017年までに50本以上の作品に出演しました。

 

 

ジョージ・レーゼンビーの『007』映画シリーズ出演作品

1969年 第6作『女王陛下の007

『女王陛下の007』のあらすじとキャスト『女王陛下の007』のあらすじとキャストは?

 

 

ジョージ・レーゼンビーの私生活

1973年、レーゼンビーは3年間付き合ったガールフレン、出版会社ガネット家の一員であるクリスティーナ・ガネットと結婚しました。その後、二人にはザカリーとメラニーという2人の子供が生まれた。ザカリーは11歳で悪性脳腫瘍と診断され、19歳で亡くなりました。メラニーはニューヨークで不動産ブローカーになりました。

2002年、レーゼンビーは元テニスプレーヤーのパム・シュライバーと結婚しました。2008年8月、シュライバーはレーゼンビーから離婚を申請したと報告されたことを発表しました。ロサンゼルス高等裁判所に提出された文書には、6年間の結婚生活の終わらせるために「相容れない違い」があったことがしめされていました。二人には、2005年に生まれた双子を含む3人の子供がいました。

 

 

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記事作成日:2020/07/25

最終更新日:2021/06/17

 

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