ジェームズ・ボンド007の生みの親、英国人作家イアン・フレミングの生涯と創作の原点

ジェームズ・ボンド007の生みの親、英国人作家イアン・フレミングの生涯と創作の原点

 

ジェームズ・ボンド007の生みの親、英国人作家イアン・フレミングがどんな人生を歩んだのか、また、彼の人生がジェームズ・ボンドの物語にどんな影響を与えたのか調べてみました。

 

イアン・フレミングのプロフィール

 

ジェームズ・ボンドについて

”彼が私と同じ服を着ているという事実を除けば、彼と私にはほとんど共通点がありません。彼の金髪と能力を羨ましく思うことはあるが、彼のことはあまり好きだとは言えない”

ーイアン・フレミング

 

ジェームズ・ボンドのプロフィールはコチラ!

ジェイムズ・ボンドという名の男【ジェームズ・ボンド007のプロフィール】ジェイムズ・ボンドという名の男【ジェームズ・ボンド007のプロフィール】

 

 

本名:イアン・ランカスター・フレミング(Ian Lancaster Fleming)

生年月日:1908年5月28日~1964年8月12日 56歳没

出身地:イギリス、ロンドン

身長:183cm

趣味:初版本収集、ヤス(魚突き)による魚取り、カード、ゴルフ(ハンディキャップ9)

イアン・フレミングもメンバーだった

名門ロイヤル・セントジョージズ・ゴルフクラブ

参考 ロイヤル・セントジョージズ・ゴルフクラブロイヤル・セントジョージズ・ゴルフクラブ公式HP

 

嗜好:

たばこ:手作りのモーランド社製のたばこに3つのゴールドリングをデザインした特注品。(1日50本~70本)

酒:ジン(1日ボトル1本)

卵料理:スクランブルエッグ

車:Ford Thunderbird

妻のアンが「サンダーバード」と呼ぶほどの Thunderbird好き。

フォード・サンダーバード・コンバーチブル(1955年)

007ジェームズ・ボンドの生みの親イアン・フレミングの生涯とは?

出典:https://www.pinterest.jp/pin/470415123567898565/

嫌いなもの:紅茶

 

 

イアン・フレミングの生涯:1910年代~

生い立ち、父との別れ

イアン・ランカスター・フレミングは、1908年5月28日、ロンドンの裕福層が住むメイフェア地区のグリーン・ストリート27番地で保守党議員(1910年~1917年)のヴァレンタイン・フレミング(Valentine Fleming)とその妻イヴリン・”イブ”・ビアトリース・フレミング(Evelyn Beatrice Sainte Croix Fleming)(旧姓:ローズ)の間に4人兄弟の次男として生まれました。

ヴァレンタイン・フレミング(1882年2月17日ー1917年5月20日)

007ジェームズ・ボンドの生みの親イアン・フレミングの生涯とは?

出典:https://www.geni.com/people/Valentine-Fleming/6000000011071700402

 

イヴリン・”イブ”・ビアトリース・フレミング(1885年1月10日ー1964年7月27日)

007ジェームズ・ボンドの生みの親イアン・フレミングの生涯とは?

出典:https://ancestors.familysearch.org/en/9KDM-S16/evelyn-beatrice-sainte-croix-rose-1885-1964

 

父親のヴァレンタインは、自分の名前を冠したマーチャント・バンクのロバート・フレミング&カンパニーを共同で設立した創設者ロバート・フレミングの息子であり、イアンは最も恵まれた環境に生まれた。

イアンの出生証明書の父の職業欄には「働かずに暮らせる資産がある」と書かれていたという。

父親のヴァレンタイン・フレミングは保守党議員であったが、1914年に第一次世界大戦が勃発し、徴兵されヨーマンリー連隊の「C」戦隊の大尉だったが、のち少佐まで昇進し「C」戦隊の指揮官となる。1916年には連隊の副官に任命される。

1915年、適齢期を迎えたイアンと長兄のピーターは、ダーンフォードの寄宿学校に入れられ、父親からは時折手紙が届くが、イヴリンからは何も来なかったという。1917年4月には父親からの手紙も途絶えた。

 

フレミング家の4兄弟

ジェームズ・ボンド007の生みの親、英国人作家イアン・フレミングの生涯とは?

後列左:マイケル(四男) 後列左:リチャード(三男)

前列左:ピーター(長男) 最前列右:イアン(次男)

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長男:ピーター・フレミング

MEMO

ロバート・ピーター・フレミング OBE DL 中佐

生年月日:1907年5月31日~1971年8月18日 64歳没

イギリスの冒険家、ジャーナリスト、軍人、旅行作家。

ピーターは1971年8月18日、スコットランドのグレン・コー付近で撮影に出かけた際、心臓発作で亡くなった。

ジェームズ・ボンドの生みの親であるイアン・フレミングの実兄である。ジェームズ・ボンドのモデルになった人物のひとりとも言われている。

 

三男:リチャード・フレミング

MEMO

リチャード・イヴリン・フレミング少佐

生年月日:1911年4月18日~1977年8月14日 66歳没

イアン・フレミングの弟。

 

四男:マイケル・フレミング

MEMO

マイケル・ヴァレンタイン・ポール・フレミング大尉

生年月日:1913年7月(〜9月)~1940年10月1日 27歳没

マイケル・ヴァレンタイン・フレミング大尉(准尉、27歳)は、第二次世界大戦中にフランドルで負傷しフランスのリールで死去。彼はオックスフォードシャー・バッキンガムシャー軽歩兵隊に所属していた。

イアン・フレミングの弟。

 

1917年5月20日、父親のヴァレンタインは西部戦線でドイツ軍の砲撃を受けて死亡。

イアンが9歳の誕生日を迎える直前のことであった。

ヴァレンタインの友人にはウィンストン・チャーチルがいたが、チャーチルは彼の追悼文を『タイムズ』紙に書き殊勲章を授与した。後にイアンはチャーチルのサイン入りの追悼文を彼の家にそれぞれ飾った。

ヴァレンタインの遺書には、母親のイブが再婚しないことを条件に信託から収入を得られるとあり遺産を引き継ぐ。

その後、母親のイブは家を売ってチェルシーに移り住み、1923年から当時の一流画家オーガスタス・ジョンとの不倫関係が始まる。ふたりの間には女の子アマリリスが生まれる。

 

アマリリス・フレミング

ジェームズ・ボンド007の生みの親、英国人作家イアン・フレミングの生涯とは?

出典:https://alchetron.com/Amaryllis-Fleming

MEMO

アマリリス・フレミング(Amaryllis Marie-Louise Fleming)

生年月日:1925年12月10日~1999年7月27日 73歳没

イギリスのチェロ演奏家・教師。

アマリリスはイブの養女として育てられる。本当の親を知ったのは20代であった。

彼女はバークシャー州のダウンハウススクールに通っていたが、3週間ごとにロンドンに行き、ジョン・スノーデンのもとでチェロのレッスンを受けていた。1943年には奨学金を得て、王立音楽院のアイヴォー・ジェイムズのもとで学んだ。

1952年に名誉ある女王賞を受賞し、翌年にはロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで毎年開催されるクラシック音楽祭「プロムス」でデビューし、ヨーロッパ各地の著名な音楽家と共演するなど、1950年代を通じてチェロ演奏家としての地位を確立した。

1993年に脳卒中で倒れ、演奏活動は終了したが、その後は王立音楽院やウェルズ大聖堂学校で教鞭をとっていた。

1999年、未婚のまま病院で静かに亡くなった。

彼女の異母兄であるイアン・フレミングは、ジェームズ・ボンドの短編小説「ベルリン脱出(The Living Daylights)」の中で、ボンドが狙撃の場所から観察したチェリストについてこう述べている。

「彼女の開いた脚の間に、あの球根状の不恰好な楽器があると思うと、何だかいやらしいような感じがした。もちろん、サギアは格好よく見せていたし、あのアマリリス何とかいう女もそうだった。しかし、女が女らしく馬に乗るときのサイド・サドルみたいなやり方を考えるべきだ」

 

 

イアン・フレミングの生涯:1920年代~

ヨーロッパでの教育、母との確執

イアン(13歳)は、1921年に兄のピーターと一緒にイートン校(男子全寮制の中高一貫校で家系の裕福な子供たちが通える唯一の正規の学校)に入学。学業はあまり得意ではなかったが、運動は得意で1925年と26年には、2年連続(17歳~18歳)で初代ヴィクター・ルドラム(ラテン語:ゲームの勝者)に輝いている。また、校内誌『ワイバーン』の編集も行っていた。

数年後、ジェームズ・ボンドの死亡記事(長編第11作「007は二度死ぬ」)を作成した際、フレミングは、ボンドのイートン校での在籍期間は短く、際立ったものではなかったと書いているが、フレミングの在籍期間はそのようなものではありませんでした。

朝食の時間に遅れる、多くの授業できちんとした発表をしないなど、生徒たちの間での彼の行動は、風変わりなものとして見られるが称賛されることもあった。フレミングが聡明で、言語能力とウィットに優れていたことは明らかだった。

フレミングは寮長のE・V・スレーターと対立していた。スレーターはフレミングの生活態度、ヘアオイル、車の所有、女性との関係を嫌っていた。

スレーターはフレミングの母親を説得し、フレミングはイートン校を退学。サンドハースト王立陸軍士官学校に入学して軍事試験の準備をすることになった。サンドハーストでの生活は決して楽しいものではなかったが、勉強している間にフレミングに厳しい規律が叩き込まれ、それが大人になってからもずっと続いた。試験の結果、フレミングは国内で6番目に高い成績で合格し、本人の希望にかかわらず、自動的に訓練プログラムに参加することになった。

軍内での任期が始まる前に、フレミングは、夏の間、オーストリアのアルバン・エルナン・フォーブズ・デニスが奨励しているサマースクールの野外活動に参加するためにオーストリアへ行った。ここで、フレミングはスキー、ロッククライミング、水泳の幅広い経験とスキルを身に付ける。

1927年、フレミング(19歳)は好きでもない士官学校に入学させられ自暴自棄から売春婦と関係、性病(淋病)に感染し駆け出しの軍人としてのキャリアを早々に終えることになった。

 

母親のイブは、やはり軍人は向いていないと判断し、彼にサンドハースト王立陸軍士官学校を退学するよう勧めた。結局、イブは彼をオーストリアのキッツビューエルで外務省の厳しい試験に備えさせることにした。

1927年、フレミングが外務省の厳しい試験のための準備として、母親は彼をオーストリアのキッツビューエルにあるテンナーホフに送り出す。テンナーホフは、英国外交官のアルバン・エルナン・フォーブズ・デニスとアドラー派の個人心理学を学び小説家の妻フィリス・ボトムが経営する小さな私立学校だった。イアンは前年の夏にもこの教育施設に通っていた。1927年の夏に兄のピーターがドイツ語を上達させたことで再び通う事になった。彼のフランス語とドイツ語は得意としていたが、外務省ではより優れた言語能力が不可欠だった。

フレミングの創作したジェームズ・ボンドのモデルは、フィリス・ボトムが書いたスパイ小説「The Lifeline」(1946)の主人公マーク・チャーマーズとも言われている。

1928年5月に外務省との最初の面接が行われた(20歳)。フォーブス・デニスの助言により、その年の秋にはミュンヘン大学に入学してドイツ語の勉強を続け、翌年にはジュネーブ大学でフランス語の勉強をすることになった。

 

テンナーホフでのイアン・フレミング(1928年)

007ジェームズ・ボンドの生みの親イアン・フレミングの生涯とは?

出典:https://www.spiegel.de/fotostrecke/die-mutter-von-james-bond-war-eine-attraktive-schweizerin-fotostrecke-88166.html

 

1929年に家族のみんなとコルシカ島で休暇を過ごし、ジュネーブに向けて出発する前に、フレミング(21歳)は生涯の友人となる2人の人物に出会った。ロンドンにいる間、彼は、後にフレミングの編集担当者(原作小説「007/ゴールドフィンガー」は彼に捧げられている)となるウィリアム・プルーマーと、また、フレミングの趣味である初版本のコレクションを始めるのを手伝ったパーシー・ミュアと出会った。

ジュネーブ大学ではゴルフに熱中し、シャモニーで頻繁に登山を楽しんだ。外務省の試験のためにフォーブス・デニスの助言でロシア語を習い、外交官と頻繁に会って国際外交の理解を深めた。スイスの地主の娘、モニーク・パンショー(monique panchaud de bottens)と出会って恋に落ちたのもこの頃で、1931年9月に外務省の試験を受けるまでの夏の間、彼女と一緒に過ごしていた。1931年9月にロンドンに戻り、外務省の試験を受ける直前にフレミング(23歳)は彼女と婚約した。

 

イアン・フレミングの恋人、モニーク・パンショー(1911年5月22日生まれ)

運転免許証の写真(18歳)

007ジェームズ・ボンドの生みの親イアン・フレミングの生涯とは?

出典:https://www.spiegel.de/fotostrecke/die-mutter-von-james-bond-war-eine-attraktive-schweizerin-fotostrecke-88166.html

 

 

イアン・フレミングの生涯:1930年代~

大戦前夜、最愛の女性との別れ

フレミングは外務省の試験を受けたが不合格となる。

兄弟3人は大学を卒業すると祖父の人脈を頼りに金融業界で活躍。文才のあった兄ピーターはその後、旅行作家としても成功する。

母親のイブは、息子イアンが外務省の試験に落ちたのは恋人のモニークのせいだと責めた。

母親のイブは、ロイター通信社の代表ロデリック・ジョーンズ卿に働きかけ、1931年10月に同社の副編集長兼ジャーナリストとしてロイター通信にフレミング(23歳)を入社させた。

その年のクリスマス、フレミングの家でモニークも一緒に過ごしたが、イブは彼女の滞在が不快を感じるように最善を尽くした。しかし、イアンは彼女を愛し可能な限り彼女に会っていた。

彼はまた、ヒトラーの台頭を取材するためにミュンヘンに派遣された1933年3月には彼女と一緒にスキー休暇を取った(25歳)。

3月の後半、フレミングはスパイ容疑で起訴された6人のイギリス人技術者の裁判を取材するためにモスクワに行くように言われた。彼は、気分転換になると思い、費用をかけてロシアに行き、ロイター通信社の関係者を感心させ、次のような文章で始まるレポートを書いた。「モスクワの300個の電光時計の大きな針が6時になったら」という書き出しで始まる彼のレポートは、ロイター通信の関係者を魅了した。フレミングの記事が発表されると、それはイギリス全土で怒りと大きな国際事件を引き起こした。モスクワに残っている英国特派員はほとんどいないため、フレミングは4月の裁判を傍聴するためにモスクワに駐留することになった。

1933年7月、祖父のロバートが他界すると遺産をすべて財団に預けてしまった。母親のイブは再婚を考えていて、イアンの行く末を心配し兄弟3人と同じ金融業界に就職することを勧める。また、母親のイブは、信託基金の手当を打ち切ると脅してモニークとの婚約も破棄させた。

1933年10月、フレミングは再び家族の圧力に屈し、金融業者のカル&カンパニーで銀行業務に就いた。1935年には株式仲買人としてビショップスゲートの当時英国最大の証券会社ロウ&ピットマン社に転職した(27歳)。だが、もともと金融業界に興味のなかったフレミングはどちらの仕事でも成功することはなかった。

フレミングはいかにこの仕事に自分が向いていないかをすぐに理解したが、給料、社会的名声、そして頻繁に行われるゴルフを楽しんでいた。この時期、彼は、ゴルフやカジノを楽しむために、海峡を越えて北フランスのリゾート地ル・トゥケやノルマンディー海岸の女王と呼ばれるリゾート地ドーヴィルに頻繁に出かける金持ちたちのひとりだった。

メアリー・クライブ卿婦人、ミュリエル・ライトなどフレミングは複数の女性と付き合っていた。ミュリエルとは1935年8月キッツビューエルでふたりは出会った。裕福な家庭に育った彼女は働く必要がなく、モデルをして暮らしていた。しかし、友人たちは、モニークとの婚約破棄以降、フレミングがガールフレンドに対して冷酷になり、彼女が彼を慕っているにもかかわらず、フレミングが彼女を大切にしていないという評判が立っていた。また、この頃、第3代オニール男爵シェーン・オニールの妻アン・オニールと出会い、二人の長い交際が始まった。

 

ミュリエル・ライト(Muriel Wright)

ボンド・ウーマンのモデルと言われるフレミングのガールフレンド、ミュリエル・ライト

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出典:https://spartacus-educational.com/2WWwrightM2.htm

 

 

第3代オニール男爵シェーン・オニールの妻アン・オニール(Ann O’neill)

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出典:https://www.anothermag.com/fashion-beauty/3402/ian-fleming-and-ann-charteris-the-real-mr-and-mrs-bond

 

1939年3月、ヒトラーがポーランドとの国境を脅かし、戦争の機運が高まっていた。イアンの兄、ピーターは諜報機関で働いていたが、イアンに『タイムズ』紙でモスクワの貿易使節団を取材する臨時職を与えることに成功した。これが、イアン(31歳)が諜報活動の世界に足を踏み入れるきっかけとなった。

ロシアの首都モスクワから帰国したフレミングは、言語が得意であることとモスクワでの仕事の成功により、海軍情報部のジョン・ヘンリー・ゴドフリー少将と面会することになった。フレミングは、目的に対する献身的な姿勢、報道や言語に対する関心と技術(ロイター通信の通信員として働いた3年間で「速く書くこと、正しく書くことを覚えた」とフレミングは語っている)、そして全体的な威厳のある態度で、ゴドフリー少将を感心させた。

 

ジェームズ・ボンドの上司Mのモデルと言われる海軍情報部のジョン・ヘンリー・ゴドフリー少将

ジェームズ・ボンド007の生みの親イアン・フレミングの生涯とは?

出典:https://www.iwm.org.uk/collections/item/object/205153196

 

 

イアン・フレミングの生涯:第二次世界大戦~

諜報部員17F号、第二次大戦中のフレミングの活躍

1939年5月、フレミング(31歳)は英国海軍の海軍情報部長であるジョン・ヘンリー・ゴドフリー少将の個人秘書に採用された。1939年8月にはフルタイムで組織に加わり、コードネームは「17F」、アドミラルティ(イギリス海軍本部)の39号室で働いていた。

フレミングは、アドミラルティの39号室で、海軍情報部長の控室を占拠して仕事に没頭していた。チームには海軍の人間と民間人が混在しており、戦争中の39号室には20人のスタッフがいた。

フレミングは、39号室に出入りするさまざまなスパイやエージェントと頻繁に接触することで想像力を刺激され、海軍情報部長のゴドフリー少将に数多くの政策やアイデアを提案した。彼はすぐにゴドフリー少将の外部との連絡係となり、その気さくな物腰、魅力、人脈で他のサービスやSISの上級士官と親しくなった。

ゴドフリー少将はフレミングを、秘密情報部、政争執行部、特殊作戦執行部(SOE)、合同情報委員会、首相官邸など、戦時中の政府行政の他部門との連絡役として頻繁に利用した。

戦争が始まると、情報収集活動は各軍の管理下に置かれるようになり、中でも海軍情報部は最も専門的な役割を担っていた。フレミングは自分の新しい役割に満足していた。

ゴドフリー少将と一緒に働くことで、フレミングは後に007の冒険に反映されることになるさまざまなスキルや冒険譚を得ることができた。少将は、海軍情報部のシステムに関するフレミングの知識は、同部で長年働いている職員よりも優れていると主張した。フレミングはまさに、聡明で学習能力が高く、疑う余地のない記憶力を持っていた。

任命の一環として、フレミングは1939年7月に英国海軍志願予備軍に就役し、当初は中尉だったが、数ヵ月後に中佐に昇進した。

中佐に昇進したことで、階級による障害がなくなり、必要に応じて閣僚と面会することができるようになった。制服の袖には階級を示す3つのゴールドバンドが付いていたため、フレミングは、後にジェームズ・ボンドが吸っていたのと全く同じ、手作りのモーランド社製のたばこに3つのゴールドリングをデザインしたものを特注した。

 

制服姿のイアン・フレミング

007ジェームズ・ボンドの生みの親イアン・フレミングの生涯とは?

出典:https://thrive50plus.com/2021/05/01/who-was-the-real-james-bond/

 

 

戦争が始まって間もない1939年9月29日、ゴドフリー少将は「イアン・フレミング中佐の特徴をすべて備えた」メモを配布した。このメモは「トラウト・メモ」と呼ばれ、戦時中に敵を欺くことをフライフィッシングに例えていたものだった。

「トラウト・メモ」

1939年に書かれた「トラウト・メモ」は、戦時中の敵を欺く行為を鱒(トラウト)釣りのフライフィッシングに例えた文書である。歴史家のベン・マッキンタイアーによれば、英国の海軍情報局長ジョン・ゴドフリー少将の名前で発行されたこのメモは、ゴドフリー少将の個人秘書であり、後にスパイ小説「ジェームズ・ボンド」シリーズを生み出したイアン・フレミングが書いたものであることが特徴。

そのメモには次のように書かれている。「鱒釣りは一日中、忍耐強くタイミングよく糸を放ち、狙った場所にルアーや仕掛けを落とす。頻繁に釣り場とルアーを変えます。魚を怖がらせてしまった場合は、「30分ほど水を休ませる」こともありますが、主な目的は、ボートからルアーや仕掛けを放つことによって魚を引き寄せることができるように絶え間ない努力を続けています」このメモには、鱒のような敵が騙されたり誘惑されたりする可能性のある54の方法が記されている。

28番目の案(「次のような提案がバジル・トムソンの本で使われている。飛行士の格好をした死体のポケットにメモを入れて、故障したパラシュートからと思われるものを海岸に投下する。海軍病院で死体を手に入れるのは難しいことではないと思いますが、もちろんあまり時間が経過していないものでなければなりません」)は、作家のバジル・トムソンが書いた小説からヒントを得たもので、トラウト・メモの推薦文は「提案(あまり良いものではありませんが)」と題された。

この案は、MI5のセクションB1のチャールズ・チャムリーとイギリス海軍諜報部員ユーエン・モンタギューという2人のイギリス軍人が立案した第二次世界大戦中の計画「ミンスミート作戦」のヒントとなったもので、1943年に連合国がシチリア島ではなくギリシャとサルデーニャ島を攻撃するとドイツ軍に信じ込ませるために、死体に偽の秘密文書を仕掛けるというものだった。この作戦は見事に成功し、その報告(「ミンスミート が「ロッド」と「ライン」と「シンカー」を飲み込んだ」)がチャーチルに送られた。

この実話は、コリン・ファース主演、ジョン・マッデン監督によって映画化されました。

映画『オペレーション・ミンスミート ーナチを欺いた死体ー』予告編

 

MEMO

映画『オペレーション・ミンスミート ーナチを欺いた死体ー』

監督:ジョン・マッデン

原作:ベン・マッキンタイアー

『ナチを欺いた死体 英国の奇策・ミンスミート作戦の真実』

脚本:ミシェル・アシュフォード

イギリス海軍諜報部員ユーエン・モンタギュー:コリン・ファース

MI5チャールズ・チャムリー:マシュー・マクファディン

イアン・フレミング中佐:ジョニー・フリン

ジョン・ゴドフリー少将:ジェイソン・アイザックス

ウィンストン・チャーチル:サイモン・ラッセル・ビール

2022年2月18日(金)全国公開

 

フレミング(32歳)は、フランスが崩壊した1940年6月にパリに飛ばされてからは、現地で活動することになる。彼は2週間ほどパリに滞在し、周囲の諜報活動を指揮した。パリがドイツ軍に占領されたため、フレミングはロールスロイスのパリ支社に隠してあった諜報部の資金を回収し、ボルドーへ逃亡した。

英国領事館では、ポルトガル経由でマドリードに向かう前に、すべての書類を焼却する作業を行った。ジブラルタル海峡は地中海へのアクセスに重要な戦略的重要性を持っていたため、スペインが戦争に参加してヒトラーに協力するのを防ぐことは、同盟国にとって不可欠と考えられていたのである。

1940年、フレミングとゴドフリー少将は、オックスフォード大学の地理学教授であるケネス・メイソンと連絡を取り、軍事作戦に参加している国の地理に関するレポートを作成することになった。これらのレポートは、1941年から1946年にかけて制作された海軍情報部の地理ハンドブックシリーズの前身となった。

フレミングがロンドンに戻ったのは、バトル・オブ・ブリテン(1940年7月10日から10月31日)が始まった頃だった。ドイツ空軍の爆撃機がロンドンを狙っており、空にはドイツ軍の猛攻を食い止めようとするイギリス空軍のハリケーンやスピットファイアが飛び交っていた。一方、海軍情報部は、「特殊作戦執行部」(SOE(Special Operations Executive))の設立により、ヨーロッパ本土での破壊工作や汚い手口には目もくれなくなっていた。

海軍情報部の最大の関心事は、ドイツのUボート艦隊による英国の海運への脅威であったが、Uボートの動きを知るためには、暗号解読者がドイツのエニグマ暗号書を使って書いた暗号を解読する必要があった。フレミングは、その答えをゴドフリー少将に宛てたメモの中で思いついた。

 

「冷酷な作戦(Operation Ruthless)」

1940年9月12日、フレミングがゴドフリー少将に宛てたメモをきっかけに、ドイツ海軍が使用しているエニグマ暗号の暗号書を入手することを目的とした「無慈悲な作戦」が計画された。

1.航空省からドイツ製の飛行可能な爆撃機を入手する。

2.パイロット、W/Tオペレーター、完璧なドイツ語を話す人など、5人のタフなクルーを選ぶ。彼らにドイツ空軍の制服を着せ、血や包帯を加える。

3.P/Lで救助隊にSOSを出した後、飛行機を英仏海峡に墜落させる。

4.救助艇に乗り込み、ドイツ人乗組員を撃ち海に捨て、救助艇をハイジャックしエニグマ暗号の暗号書をイギリスに持ち帰る。

「冷酷な作戦(Operation Ruthless)」は準備が整っていたものの、適切なドイツの海上交通手段がなかったために中止された。フレミングは当初、自分が作戦に参加することを希望していたが、敵の手に落ちるにはあまりにも貴重な存在であるため、当然ながらゴドフリー少将はその提案を却下した。

「冷酷な作戦(Operation Ruthless)」は実現しなかったが、フレミングは戦争の残り期間中、海軍情報部で中心的な役割を果たし続け、数多くのプロジェクトを遂行しながら、ニューヨーク、ケベック、タンジール、ジャマイカなどいろいろな場所を旅していた。

フレミングの姪であるルーシー・フレミングによると、2008年5月24日に放送されたBBCラジオ4のラジオ番組「The Bond Correspondence」でイギリス空軍の関係者が、墜落したハインケルの爆撃機を英仏海峡に落としても、すぐに沈んでしまうだろうと指摘した。

 

「ゴールデンアイ作戦(Operation Goldeneye)」

ゴドフリー少将はフレミング(33歳)を1941年から1942年にかけて「ゴールデンアイ作戦(Operation Goldeneye)」の責任者に任命した。「ゴールデンアイ作戦」とはドイツがスペインを占領した場合にスペインで情報体制を維持する計画であった。フレミングの計画はジブラルタルとの通信を維持し、ドイツに対して戦略的に重要な領土を守るための対策を講じる作戦だった。

フレミングは、1941年2月16日から2月26日までジブラルタルに渡り、作戦のために現地の駐在員と事前の活動を行った。フレミングはこの訪問中にアメリカ情報調整官のウィリアム・J・ドノバンとも会っている。

しかし、ドイツによるスペイン占領やジブラルタルへの侵攻は起こらず、「ゴールデンアイ作戦」は1943年8月に停止された。

 

フレミングは、フランクリン・D・ルーズベルト大統領のロンドン・ワシントン間の情報協力に関する特別代表であるウィリアム・J・”ワイルド・ビル”・ドノバン大佐とも仕事をしていた。ゴドフリー少将は、アメリカ人にもっと真剣に情報収集をしてほしいと考え、フレミングとともにニューヨークを訪れる。

1941年5月、フレミングはゴドフリー少将に同行して渡米、戦略情報局(OSS)から最終的に中央情報局(CIA)となった情報調整局(OOCI)の責任者を決めるプロジェクトにも参加した。目的は達成され、フレミングは諜報活動の運営に携わった経験から顧問として残った。

 

1941年、フレミングはゴドフリー少将とスパイマスターのウィリアム・S・スティーブンソンを連れてアメリカに行き、ホテルの部屋から日本の暗号コードを盗み出すことに成功する。スティーブンソンにとっては簡単な作業でしたが、この出来事はジェームズ・ボンドの最初の殺しのエピソードに使われました。

 

第30コマンド部隊(30AU(Assault Unit))

1942年、フレミング(34歳)は金庫破り、錠前破り、盗聴などを専門とする情報専門部隊で構成された第30コマンド部隊と呼ばれる部隊を編制した。第30コマンド部隊の仕事は、前進の最前線に近づき、事前に目標とした本部から敵の文書を奪うことだった。この部隊は、1941年5月のクレタ島の戦いで同様の活動を行ったオットー・スコルツェニーが率いるドイツのグループをベースにしていた。フレミングはこのドイツ部隊を「ドイツの諜報活動における最も優れた革新の1つ」と考えていた。フレミングが「レッド・インディアン」と呼んだ第30コマンド部隊は、パリ解放やドイツ侵攻に貢献した(1943年から1946年まで活動)。

第30コマンド部隊の指揮官であるフレミングが戦後書くようになったスパイ小説に登場する架空の英国秘密情報部員の主人公であるジェームズ・ボンドのモデルとなったのが、この第30コマンド部隊と戦時中の活動だった。

 

1942年後半、エドモンド・ラッシュブルック大尉(後に少将)がゴドフリー少将に代わって海軍情報部の部長となり、フレミングの組織内での影響力は低下していったが、第30コマンド部隊の統制は維持していた。

 

1942年、フレミングはジャマイカで開催された英米情報機関のサミットに出席したが、訪問中は常に大雨が降っていたにもかかわらず、戦争が終わったら島に住むことを決めた。フレミングは、英米会議に旧友のアイヴァー・ブライスを同行させた。彼はニューヨークのシークレット・サービスで働いており、カリブ海の島に不動産を所有していた。アイヴァー・ブライスがセント・メアリー教区で土地を探してくれ、1945年にフレミングはゴールデンアイと名付けた別荘を建てた。フレミングが小説を書いた別荘の名前には多くの由来があります。フレミング自身は、戦時中に自分が参加した特殊任務作戦「ゴールデンアイ作戦」と、カーソン・マッカラーズの1941年の小説『黄金の瞳に映るもの』の両方に言及しています。

 

フレミングの私生活は相変わらず複雑で、アン・オニールやミュリエル・ライトとは何度も会っていたが、他にもさまざまな女性と頻繁に会っていた。ミュリエルはフレミングを深く愛していた。フレミングは彼女の気持ちをうまく利用し続けたが、1944年3月に彼女が空襲で亡くなったとき、彼女の遺体を確認したのはフレミング(36歳)であった。

彼女は、窓から飛び込んできた石材の破片が頭を直撃して即死だった。目立った被害がなかったため、誰も怪我人や死者を探そうとは思わず、彼女の愛犬プーシキンが外で鳴いているのを見て初めて捜索が行われた。彼女の唯一の連絡先であるフレミングは、寝間着を着たままの彼女の遺体を確認するために呼ばれた。

ミュリエルの死はフレミングに大きな悲しみを与えたが、同時に彼女を諜報活動に利用してきたことへの罪悪感を覚えた。

 

T-フォース(ターゲット・フォース)

第30コマンド部隊の成功を受けて、1944年8月には「ターゲット・フォース」の設立が決定され、これが「T-フォース」として知られるようになった。ロンドンの国立公文書館に保管されている公式メモには、この部隊の主な役割が記されている。「T-フォース=ターゲット・フォースは、解放された地域や敵地の大きな町や港などを占領した後、戦闘要員や諜報要員とともに、文書、人物、装備を守り、確保するための部隊である」

当時は知られていなかったが、T-フォースの任務には、ナチスの先端技術がソ連に渡るのを防ぐことも含まれており、ソ連軍が到着する前に、押収できないものは破壊して運び出していた。このように、T-フォースの活動は冷戦の始まりでもあった。

T-フォースはまた、占領軍やドイツの再建に役立つ電話交換所などのインフラの損傷を防ぐことも任務としていた。

フレミングは、T-フォース部隊のターゲットを選定する委員会に参加し、部隊の将校に支給された「ブラックブック」にリストアップした。T-フォースの歩兵部隊は、第2軍を支援するキングスレジメント第5大隊から構成されていた。核研究所、ガス研究センター、個人のロケット科学者など、英国軍にとって関心のあるターゲットを確保する責任があった。この部隊が最も注目すべき発見をしたのは、ドイツのキール港への進攻時で、V-2ロケット、メッサーシュミットMe163戦闘機、高速Uボートに使用されたドイツ製エンジンの研究センターであった。フレミングは後に、特に1955年に発表された原作小説「007/ムーンレイカー」において、T-フォースの活動の要素を使用している。

 

戦争で未亡人となったアンは、第2代ロザミア子爵エズモンド・セシル・ハームズワースと交際していたが、1945年6月、フレミング(37歳)に「あなたの行動を待つのに疲れたので、ロザミア子爵と結婚することにしました」と伝えた。しかし、結婚後もアンはフレミングとの交際を続けていた。

 

 

イアン・フレミングの生涯:戦後(1945年~)

ジャーナリスト、イアン・フレミング

1945年5月にフレミング(37歳)が復員すると、当時『サンデー・タイムズ』紙を所有していたケムスレイ新聞社グループの国際欄担当部長となった。ケムスレイ新聞社の世界的な特派員ネットワークの特派員80名を統括した。彼の契約では、毎年冬に2ヵ月の休暇を取ることができ、彼はジャマイカで連続休暇を取った。フレミングは1959年12月まで新聞社で働いていた(フルタイム)が、少なくとも1961年までは記事を書き続け、火曜日の週間ミーティングに出席していた。

彼の年俸は4,500ポンドで、500ポンドの経費手当と2ヵ月の休暇がついていたが、これは1年の一部をジャマイカの別荘(フレミングのロンドンの自宅はロンドン市内の高級住宅街チェルシーの南端にある「カーライル・マンション」)で過ごすという彼の夢をかなえるためのものだった。彼は、情報機関とつながりのある多くのジャーナリストを採用することに成功し、海外特派員の中には、ケムスレイ新聞と秘密情報部MI6の両方で同時に働いている者もいた。

 

ジャマイカの別荘ゴールデンアイ

この間にアイヴァー・ブライスは、フレミングが別荘を建てるのに適した場所をオラカベッサの海を見下ろす古いロバのレース場の跡地に見つけた。フレミングは、第二次世界大戦中に描いた図面を読み返してみた。その図面には、大きなリビングルームがあり、寝室やキッチンのスペースはあまり確保されていなかった。フレミングは、南国の風が好きだったので(後に原作小説「007/死ぬのは奴らだ」に登場するジャマイカの風の呼び名「医師の風」や「葬儀屋の風」)ガラス張りの窓ではなく、カリブ海によく見られるすのこ状のシャッターをデザインに取り入れた。

敷地内には小さな砂浜があり、すぐ沖合にはサンゴ礁が広がっていた。彼はフェイスマスクとシュノーケルを使って、色とりどりの熱帯魚やタコ、ロブスターなど、大好きな海洋生物を眺めて過ごせる環境を手に入れた。

第二次世界大戦中にフレミング自身が参加したジブラルタル防衛計画「ゴールデンアイ作戦」にちなんで「ゴールデンアイ」と名付けられたこの別荘に、彼が初めて訪れたのは1946年12月、5週間の滞在だったが、その時にはサンクンガーデン(半地下広場)とビーチに降りる階段が付け加えられていた。

 

待たされた結婚と不倫の関係

アン・オニールの最初の夫が戦死した後、彼女はフレミングとの結婚を期待していたが、彼は独身を貫くことを決めた。

1945年6月28日、彼女は第2代ロザミア子爵と結婚した。それでもアンはフレミングとの関係を続け、彼の友人であり隣人であるノエル・カワードを訪ねることを口実に、ジャマイカへ彼に会いに行った。

アンが初めてゴールデンアイを訪れたのは1947年1月のことで、その際、彼女はウェストミンスター公爵夫人のロエリアと一緒に旅をした。後にロエリアは自分が利用されたと不満を漏らしたが、フレミングは客を楽しませるために、鳥類学者のジェームズ・ボンドが書いた『西インド諸島の鳥類に関するフィールドガイド』という本を買ってきた。

1948年3月にロンドンに戻ったフレミングは、アンが自分の子を妊娠していることを知った。しかし、8月、フレミングとロエリア・ウェストミンスター公爵夫人をゲストに迎えて、第2代ロザミア子爵が手配したスコットランドでのゴルフ旅行中に、1ヵ月の早産で娘メアリーを出産するが生まれて8時間後に死去。

療養のためにアンをヨーロッパに連れて行った第2代ロザミア子爵は、そこでアンにフレミングとの交際をやめるように要求した。アンはその要求を無視して、翌年の1月にゴールデンアイを訪れた。その際、2人は膠着状態を打破する必要があることに気づいた。しかし、サウサンプトンでは夫からの最後通告を受け、1951年に第2代ロザミア子爵がこの状況に嫌気が差してアンと離婚し、『デイリー・メール』紙の仕事も辞めさせられるまで、これまでと同じような関係が続いた。

1952年にジャマイカに到着したアンは、すでにフレミング(44歳)の子供を妊娠しており、ようやく自由になった二人は、ジャマイカにいる間にできるだけ早く結婚しようと決意した。

フレミングとアンは、1952年3月24日、ジャマイカ北岸のポート・マリアのタウン・ホールで、ノエル・カワードとコール・レスレイを立会人として結婚式を挙げ、その後、アルコール漬けの結婚式は朝まで続いたと言われている。

8月12日に息子のカスパーが生まれる。

フレミングもアンも結婚生活の中で浮気をしており、アンは労働党党首でもあったヒュー・ゲイツケルや政治家のロイ・ジェンキンスと不倫関係にあった。フレミングはジャマイカで隣人の一人でアイランド・レコードのクリス・ブラックウェルの母親であるブランチェ・ブラックウェルと長期に渡って浮気をしていた。

 

 

イアン・フレミングの生涯:1950年代~(1)

作家活動開始、最高のスパイ小説を

原作小説:長編第1作「007/カジノ・ロワイヤル」

フレミングは戦時中、友人たちにスパイ小説を書きたいと話していた。フレミングは目前に迫ったアンとの結婚式のことを忘れるために、ようやく「すべてのスパイ小説を超える最高のスパイ小説」の執筆に取り掛かった。彼は1952年2月15日、ジャマイカの別荘「ゴールデンアイ」で、自分の経験や想像力からインスピレーションを得て執筆を開始した。

フレミングは原作小説の長編第1作「007/カジノ・ロワイヤル」を2ヵ月で書き上げた。フレミングはこの小説を「恐るべき愚かな作品」と呼んだ。

彼の原稿はロンドンでジョーン・ハウ(旅行作家ローリー・マクリーンの母親)によってタイプされた。ジョーン・ハウは、『サンデー・タイムズ』紙の赤毛のフレミングの秘書でMの秘書ミス・マネーペニーというキャラクターのモデルの一部となった。

 

フレミングは、5月にウィリアム・プルーマーと昼食をともにする時間を作り、彼は友人に本を書いたことを認めた。プルーマーはジョナサン・ケープ社という出版社に勤めておりチーフ・リーダー兼文芸顧問であった。彼はフレミングを説得して原稿を送ってもらうと、彼は感銘(「私が見る限り、サスペンスの要素が足りない」とも発言したが)を受けて同僚の一人にも送った。本の出版が決まると、フレミングはエージェントを持たないジョナサン・ケープ社と直接契約を結び、ハードカバーのアートワークも自分でデザインした。

1953年4月13日、イギリスで長編第1作「007/カジノ・ロワイヤル」がハードカバーで発売され、価格は10シリング6ペンスだった。

長編第1作「007/カジノ・ロワイヤル」(英国発売日:1953年4月13日)

ジェームズ・ボンド007の生みの親イアン・フレミングの生涯とは?

初版本のカバーデザイン

出典:https://www.thehandbook.com/drink-it-now-read-it-in-lockdown/

 

フレミングは作家になれば収入が増えると期待していた。「007/カジノ・ロワイヤル」は英国では好評を博して発売されたが、同年5月の時点で、フレミングが作家活動で得た収入はわずか200ポンドで、期待していたが家族を養うにはほど遠かった。だが、フレミングは秘密情報部員ジェームズ・ボンドを主人公にした第2作目の執筆を始める。

 

 

ジェームズ・ボンド007のキャラクターに関する由来

ジェームズ・ボンドの名前の由来

フレミングが書いた原作小説:長編第1作「007/カジノ・ロワイヤル」は、秘密情報部(通称MI6)の諜報部員(ちょうほうぶいん)であるジェームズ・ボンドの活躍を描いている。ボンドはコードネーム「007(ダブルオーセブン)」でも知られており、英国海軍予備役の中佐という設定。

ジェームズ・ボンドの名前は、カリブ海の鳥類の専門家であり、フィールドガイドの決定版『西インド諸島の鳥類(Birds of the West Indies)』(1936)の著者であるアメリカの鳥類学者、ジェームズ・ボンドの名を借りたものだった。フレミング自身も熱心なバードウォッチャーであった。

 

イアン・フレミングの別荘ゴールデンアイを訪問したジェームズ・ボンド(1964年2月)

ジェームズ・ボンド007の生みの親、英国人作家イアン・フレミングの生涯とは?

出典:https://www.birdwatchingdaily.com/gear/books/book-story-ornithologist-james-bond/

MEMO

ジェームズ・ボンド007の生みの親、英国人作家イアン・フレミングの生涯とは?

出典:https://www.smithsonianmag.com/arts-culture/who-was-the-real-james-bond-180978746/

ジェームズ・ボンド(James bond)

生年月日:1900年1月4日 – 1989年2月14日 89歳没

アメリカの鳥類学者で、特にカリブ海の鳥類の専門家であり、このテーマに関する最も信頼のおける本を書いた。1936年に自然科学アカデミーから出版されたフィールドガイドの決定版『西インド諸島の鳥(Birds of the West Indies)』は、カリブ海に生息する400種類以上の鳥類の専門書として知られている。

1947年にマクミラン社から『西インド諸島の鳥類に関するフィールドガイド(Field Guide to Birds of the West Indies)』として再販された。

フィラデルフィアの自然科学アカデミーの学芸員を務めた。

 

1962年に『ニューヨーカー』誌に掲載されたインタビューで、フレミングはボンドの名前の由来についてこう説明しています。「1953年に第1作目「007/カジノ・ロワイヤル」を書いたとき、ボンドは事件が起きるなかで非常に退屈で面白みのない男にしたいと思っていました。主人公の名前を考えていたとき、神よ!”ジェームズ・ボンド”は今まで聞いた中で最も平凡な響きの名前だと思いました」

 

ジェームズ・ボンドのモデル

フレミングは、海軍情報部に所属していた頃に出会ったさまざまな隊員や秘密工作員をもとに主人公のキャラクター創作を行い、主人公のジェームズ・ボンドは「戦争中に出会ったすべての秘密工作員や隊員の複合体である」と認めています。そのモデルの中には、フレミングが崇拝し、戦争中にノルウェーやギリシャでの裏工作に参加していた兄のピーターも含まれていました。フレミングは、ボンドが作曲家、歌手、俳優のホーギー・カーマイケルに似ていることを想定していたが、作家で歴史家のベン・マッキンタイアーのように、ボンドの描写にフレミング自身の容姿の側面を見出す人もいる。小説の中の一般的な記述では、ボンドの印象を「暗くて非情で、かなり残酷な美貌」を持っているとされている。

 

イアン・フレミングが、ジェームズ・ボンドをイメージしていた

ミュージシャン・俳優のホーギー・カーマイケル(Hoagy Carmichael)

ジェームズ・ボンド007の生みの親、英国人作家イアン・フレミングの生涯とは?

出典:https://jamesbondradio.com/reading-fleming-casino-royale-1953-benjamin-clow/hoagy-carmichael/

MEMO

本名:ホーグランド・ハワード・カーマイケル(Hoagland Howard Carmichael)

生年月日:1899年11月22日 – 1981年12月27日 82歳没

アメリカのミュージシャン、作曲家、作詞家、俳優、弁護士。

1930年代に最も成功したポピュラー音楽のソングライターの一人であり、テレビ、電子マイク、録音などの新しいコミュニケーション技術を活用したマスメディア時代の最初のシンガーソングライターの一人。

作曲した曲は数百曲にのぼり、そのなかの50曲がヒットしたと言われている。また、14本の映画に俳優、ミュージシャンとして出演した。

 

ジェームズ・ボンドのモデルとされる人々

1.コンラッド・オブライエン・フレンチ

1930年代にキッツビューエルでスキーをしているときに出会った英国秘密諜報員。英国の著名な秘密情報部員であり、勲章を受けた陸軍将校、スキーヤー、登山家、言語学者、旅行者、芸術家であった。1918年、秘密情報部長官スチュワート・メンジースはコンラッドをMI6に採用し、海外での秘密任務に就かせた。

 

2.パトリック・ダルゼル=ジョブ

戦時中に第30コマンド部隊で優秀な成績を収めた優れた言語学者、作家、海兵隊員、航海士、パラシュート飛行士、潜水士、スキーヤー。

 

3.ウィルフレッド・”ビフィー”・ダンダーデール

MI6のパリ支局長で、カフスボタンと手作りのスーツを着用し、ロールスロイスでパリ市内を運転手付きで移動していた。フレミングの友人で魅力的な女性と早い車が好きだった。

 

4.シドニー・コットン

コットンは、英国王立海軍航空局に所属していたオーストラリア人の発明家、写真家。第二次世界大戦中、フレミングの親友であった。コットンは、第一次世界大戦でパイロットとして活躍した後、MI6に所属して、飛行機の胴体に隠したカメラでドイツの工場や軍事施設、飛行場などを撮影していた。

 

5.サンディ・グレン(アレクサンダー・リチャード・グレン卿)

グレンはスコットランド人の元北極探検家で、フレミングとともに海軍情報部で働いていました。

 

6.デュアン・タイレル・”ビル”・ハドソン

第二次世界大戦の大半をユーゴスラビアの敵陣で過ごしたパルチザンのハドソンは、当初はイギリスのシークレット・サービスに、その後はSOE(Special Operations Executive)に所属していた。ハドソンは暗殺を免れ、エージェントのネットワークを使って枢軸国のイタリア船を一人で爆破した。

 

7.マーリン・ミンシャル

ミンシャルは英国海軍志願予備軍の仲間で、海軍情報部の仕事を通じてフレミングと知り合いだった。1940年にはSOEに参加し、フランスやユーゴスラビアでナチスに対抗してゲリラ戦を展開した。

 

8.ドゥシャン・ポポヴ

ポポヴは、MI6(コードネーム「トライシクル」)、アプヴェーア(ドイツの諜報機関)(コードネーム「イワン」)のセルビア人の二重スパイだった。フレミングはポポヴを知っており、MI6に任命された護衛としてポルトガルのリスボンで彼を尾行し、エストリルのカジノでポポヴが4万ドル(2020年のドル換算で70万ドル)を賭けてブラフをかけ、ライバルがバカラのテーブルから撤退するという出来事を目撃している。フレミングはこのエピソードを長編第1作「007/カジノ・ロワイヤル」で使用している。

 

9.シドニー・ライリー

ライリーはロンドン警視庁の特別捜査部と英国秘密情報局のエージェントだった。1918年、ライリーはマンスフィールド・スミス=カミング卿に雇われ、MI6の初期名称であるMI1(C)の工作員となった。ライリーの友人であるロバート・ハミルトン・ブルース・ロックハート卿はフレミングと長年の付き合いがあり、ライリーのスパイ活動の話を聞かされていた。

 

10.ピーター・スミザーズ

フレミングが知っていたピーター・スミザーズ卿は、ナチスがフランスを進撃してきたとき、フランスからのイギリス人難民のために航路を確保した。その後、海軍武官として、ワシントンでナチスに関する偽情報を広める仕事をしていた。彼は戦争の一部を海軍情報部で過ごし、フレミングは後に長編第7作「007/ゴールドフィンガー」の登場人物(スミザーズ大佐:イングランド銀行の調査部の部長)に彼の名前を付けた。

 

11.ウィリアム・S・スティーブンソン

ウィリアム・スティーブンソンは、コードネーム「イントレピッド」で知られる国際的なスパイマスターである。

第一次世界大戦のカナダ軍人であり、戦闘機のエースパイロット、起業家、発明家、国際的な大富豪でもあり、ナイトバチェラーの称号を持つスティーブンソンは、1940年にはニューヨークに拠点を置くMI6の組織である英国セキュリティコーディネーションの責任者となり、チャーチルとルーズベルトのアドバイザーを務めた。

第一次世界大戦の軍事十字勲章と殊勲飛行十字勲章は、敵陣の背後で死傷者と混乱を引き起こした大胆さと率先性、そして軍事情報を提供する能力が評価されたものである。

1918年末に撃墜され、捕虜となるが、収容を免れることができた。1920年から30年代にかけて国際的な商業活動を展開した後、1930年代にはウィンストン・チャーチルにドイツの条約違反や戦争準備に関する情報を提供し、第二次世界大戦中には連合国側のスパイ養成施設「キャンプX」を設立・運営しました。重要なスパイ道具の開発にも貢献した。

 

12.F・F・E・ヨー=トーマス

F・F・E・ヨー=トーマスは、SOEで「ホワイト・ラビット」というコードネームで呼ばれていたイギリスのフィールドエージェント。彼のSOEでの任務は、敵に占領されたフランスで何度もパラシュートで降下することだった。フレミングは回想録の中で、トーマスが敵陣で行った任務について、ナチスとの会食、変装、ゲシュタポに捕まって尋問を受けた後の逃亡、敵のエージェントの射殺、さまざまな女性との交際など、トーマスの魅力を綴っている。

 

また、フレミングは、ゴルフのハンディキャップが同じであること、スクランブルエッグが好きであること、ギャンブルが好きであること、同じブランドの嗜好品を使用していることなど、ボンドに自分の特徴を多く持たせています。

 

コードネーム「007」の由来

イアン・フレミングは、第二次世界大戦に従軍していた時、スパイ技術と歴史を研究していました。ジェームズ・ボンドに与えられたコードネーム「007」という数字は、さまざまな情報源から影響を受けている可能性があります。映画や小説の中で、「00」という接頭語は、ボンドが任務を遂行する上での自由裁量による「殺しのライセンス」を意味しています。ボンドの番号である「007」は、フレミングが第一次世界大戦における英国海軍情報部の重要な功績の一つであるドイツの外交暗号の解読に使われた番号から付けたのではないかと考えられます。

イギリスが解読して読み取ったドイツの文書のひとつが、ドイツの外務大臣アルトゥール・ツィンメルマンがメキシコへ送った「ツィンメルマン電報」と呼ばれている暗号電文で、この暗号電文を解読するために使用された暗号書がコード番号「0075」であった。この暗号電文の解読によってアメリカは第一次世界大戦への参戦を決定した。その後、資料のグレードが「00」であれば、それは高度な機密であることを意味し、作家、歴史家のベン・マッキンタイアーが指摘しているように、「諜報活動の歴史に詳しい人にとって、「007」はイギリス軍の諜報活動の最高の成果を意味していた」のである。

 

 

イアン・フレミングの生涯:1950年代~(2)

レイモンド・チャンドラーの友情

原作小説:長編第2作「007/死ぬのは奴らだ」

1953年1月中旬、フレミングは以前にハーレムのジャズクラブを訪れたことのあるニューヨークに行き、次の作品のリサーチのためにフロリダのセント・ピーターズバーグまで列車で行き、その後ジャマイカに向かった。

1954年の長編第2作「007/死ぬのは奴らだ」を完成させる前に、フレミング(46歳)は『サンデー・タイムズ』紙の世界旅行のレポートという形でノンフィクションの記事も書いていた。その旅行記の中で、フレミングは、ボンドの第2作目のフィナーレに大きな影響を与える深海の船底作業を見学したと言われていますが、これはフレミングの作品のために既存のアイデアやイメージをうまく結びつけている実例とされる。

フレミングは、自分が書いたものは書籍よりも映画化に向いているのではないかと編集担当者のウィリアム・プルーマーに語っていた。

1954年4月、ジョナサン・ケープ社から長編第2作「007/死ぬのは奴らだ」が出版されたが、フレミングは、米国の出版社マクミラン社から、自身の懸念を裏付けるような、落胆したメモを受け取った。そのメモには「ボンドは、これ以上の作品を作らなければならない」と書かれていました。

長編第2作「007/死ぬのは奴らだ」(英国発売日:1954年4月5日)

ジェームズ・ボンド007の生みの親、英国人作家イアン・フレミングの生涯とは?

初版本のカバーデザイン

出典:https://historical.ha.com/itm/books/signed-editions/ian-fleming-live-and-let-die-london-jonathan-cape-1954-first-edition-inscribed-by/a/6030-37257.s

 

フレミングは、友人であり作家仲間でもあるレイモンド・チャンドラーに手紙を書き、この苦境を説明しました。チャンドラーは、フレミングの第2作目の小説に対する推薦文を返信してくれました。そのコメントは、短くてパンチの効いたもので、フレミングのことを「おそらく、イギリスではいま最もスリルと呼ばれるべきものを最も力強く、そして意欲的に書いている作家である」と評しました。最終的にマクミラン社はボンドの第2作目の冒険を受け入れ、長編第2作「007/死ぬのは奴らだ」は1955年に米国で発売されました。

 

ハードボイルドの巨匠、レイモンド・チャンドラー

ジェームズ・ボンド007の生みの親、英国人作家イアン・フレミングの生涯とは?

出典:https://www.writerswrite.co.za/raymond-chandlers-response-to-an-overzealous/

MEMO

レイモンド・ソーントン・チャンドラー(Raymond Thornton Chandler)

生年月日:1888年7月23日 – 1959年3月26日 70歳没

アメリカ合衆国生まれ

アメリカ・イギリスの小説家、脚本家である。

1932年、44歳のチャンドラーは、大恐慌の中で石油会社の重役としての仕事を失い、探偵小説家に転身した。1933年、最初の短編小説「脅迫者は撃たない」が人気パルプ雑誌「ブラック・マスク」に掲載された。長編第1作「大いなる眠り(The Big Sleep)」は1939年に出版された。短編小説に加えて、チャンドラーは生涯に7つの長編小説を出版した(死の間際に執筆中だった第8作目「プードル・スプリングス物語」は、第4章以降をハードボイルド作家のロバート・B・パーカーが執筆し完成させた)。長編第7作「プレイバック」を除くすべての作品が映画化されており、中には複数回映画化されたものもある。亡くなる前年には、アメリカ推理作家協会の会長に選出されている。

【著作リスト:長編】

第1作「大いなる眠り」(1939年)

(映画「三つ数えろ」:ハワード・ホークス監督、ハンフリー・ボガート、ローレン・バコール出演で映画化)

第2作「さらば愛しき女よ」(1940年)

第3作「高い窓」(1942年)

第4作「湖中の女」(1943年)

第5作「かわいい女」(1949年)

第6作「長いお別れ」(1953年)

(名セリフ:

「ギムレットには早すぎる」、

「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」、

「警官とさよならを言う方法はまだ発明されていない」)

第7作「プレイバック」(1958年)

(名セリフ:「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない」)

 

 

映画化への関心、作家活動のルーチン

フレミングがマクミラン社との米国での出版契約のために1953年6月に渡米したとき、長編第1作「007/カジノ・ロワイヤル」の初版が完売し、同月に第2刷が出版されると知らされた。

イギリスに戻った彼の家族は、平日はロンドンでアンと別々の生活を送り、週末はケント州でゴルフを楽しむという生活を送っていた。彼は相変わらず幅広い分野に興味を持ち、面白いと思ったことは何でもメモしていた。

 

フレミング(46歳)は、小説を映画化することで収益をあげることができるのではないかと気づき、1954年1月にイギリスの映画監督で映画プロデューサーのアレサンダー・コルダ(Sir Alexander Korda)が映画化について彼に連絡してきたときに初めて映画化に深い関心が生まれた。

アレサンダー・コルダは「007/カジノ・ロワイヤル」が映画化に適しているかどうか疑問を呈したが、フレミングは次の作品を書くためにジャマイカに落ち着いたときには、映画化に向いた作品を書こうと考えていた。長編第3作「007/ムーンレイカー」は、ロンドンのクラブ「ブレイズ・クラブ」とケント州を舞台にした作品になった。フレミングは1964年に亡くなるまで、毎年、1月と2月にジャマイカの別荘で休暇を過ごしながら新しい本を書き、春には前年に書いた作品を出版するという、彼の執筆活動のルーチンが確立されていた。

 

ジェームズ・ボンド登場、テレビ映画『カジノ・ロワイヤル』

アレサンダー・コルダとの話し合いは失敗に終わったが、フレミングは、ジェームズ・ボンドと彼の最初の冒険の権利を求めて、複数の映画製作者から買収の申し出を受けた。フレミングは1954年、長編第1作「カジノ・ロワイヤル」のテレビ放映権を売ることに成功した。価格は1000ドルだった。

1954年10月21日に米CBSの連続スリラー番組「クライマックス!」で生放送された『カジノ・ロワイヤル』では、ブロードウェイの舞台で活躍中だったバリー・ネルソンが主人公のジェームズ・”ジミー”・ボンドを演じた。アメリカで映像化されたためにジェームズ・ボンドはアメリカ人の諜報部員に変更された。

バリー・ネルソン主演のテレビ映画『カジノ・ロワイヤル』(1954年)

MEMO

監督:ウィリアム・H・ブラウン・ジュニア

キャスト:

バリー・ネルソン:ジェームズ・”ジミー”・ボンド(アメリカの諜報部員)

ピーター・ローレ:ル・シッフル

リンダ・クリスチャン:ヴァレリー・マチス(ボンドの元恋人)

マイケル・ペイト:クラレンス・ライター(イギリス情報部)

 

 

原作小説:長編第3作「007/ムーンレイカー」

1955年(47歳)には、イギリス(4月)とアメリカ(9月)で長編第3作「007/ムーンレイカー」が出版され、アメリカでは長編第3作「007/ムーンレイカー」の映画化のオプションが販売され、ついにジェームズ・ボンドが大スクリーンに登場するかと思われた。しかし、イギリスのランク・オーガニゼーション社がより優れたオファーを出したものの、その後の交渉でアメリカでの契約は決裂し、結局ランク・オーガニゼーション社は契約に至らず、フレミングは「James Gunn – Secret Agent」というテレビプロジェクトに関わることになる。フレミングの書いたあらすじは、ジャマイカを舞台にドクター・ノオという悪役を登場させるものだったが、またしても企画は頓挫してしまう。

長編第3作「007/ムーンレイカー」(英国発売日:1955年4月5日)

ジェームズ・ボンド007の生みの親、英国人作家イアン・フレミングの生涯とは?

初版本のカバーデザイン

出典:https://historical.ha.com/itm/books/mystery-and-detective-fiction/ian-fleming-moonraker-london-jonathan-cape-1955-first-edition-first-printing-signed-and-inscribed-by/a/6094-36251.s

 

 

原作小説:長編第4作「007/ダイヤモンドは永遠に」

フレミングは、サラトガ、シカゴ、ロサンゼルス、ラスベガスと、「ジェームズ・ボンド」シリーズの長編第4作「007/ダイヤモンドは永遠に」のリサーチのためにアメリカを訪れました。1955年1月、ゴールデンアイで長編第4作「007/ダイヤモンドは永遠に」の執筆を始める。

一方、出版社はアメリカ市場向けに長編第1作「007/カジノ・ロワイヤル」の第2版を制作した。今回は、より多くの読者を獲得することを目的に、ポピュラー小説のペーパーバックのタイトルを「You Asked For It(自業自得)」に改題した。1955年4月に「You Asked For It」は出版されアメリカで成功を収め、イアン・フレミングとジェームズ・ボンドを広大な国に広めるきっかけとなった。

長編第4作「007/ダイヤモンドは永遠に」(英国発売日:1956年3月26日)

ジェームズ・ボンド007の生みの親、英国人作家イアン・フレミングの生涯とは?

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出典:https://www.jamesbondfirsteditions.com/pages/books/39806/ian-lancaster-fleming/diamonds-are-forever

 

 

原作小説:長編第5作「007/ロシアから愛をこめて」

1955年9月、ファン待望の第5作の準備をするためにフレミング(48歳)はスメルシュと秘密情報部MI6が戦うための完璧な中間地点と考えていたイスタンブールに向かった。トルコでは、オックスフォード大学の卒業生であるナジム・カルカヴァンと出会い、フレミングは彼のことが気に入り、一緒に国中を歩き回った。ボンドのトルコでの盟友のキャラクター、英国秘密情報部のトルコ局主任ダーコ・ケリムのモデルとなった。フレミングは、何度も食事をしているうちに、ナジムが口にしたある言葉を書きとめ、小説のなかでもケリムのセリフとして使われている。

「いつかは急にこの心臓が駄目になるだろう。おやじがやられたように、心臓を襲う鉄の爪にきゅっとね」

(長編第5作「007/ロシアから愛をこめて」:第15章「スパイになるまで」)

 

「007/ロシアから愛をこめて」の物語では、ボンドを罠にかけるために、架空のソビエト製暗号解読機「スペクター」が登場する。「スペクター」は、第二次世界大戦中のドイツ海軍が使用しているエニグマ暗号の暗号書をヒントにしている。

ボンドがオリエント急行の列車内で命を狙われる物語は、ブダペストに駐在するアメリカの海軍駐在員兼諜報員であるユージン・カープが、1950年2月、東欧圏におけるアメリカのスパイネットワークの暴露論文を持って、ブダペストからパリまでオリエント急行に乗ったという話に基づいている。すでに列車に乗っていたソ連の暗殺者が車掌に睡眠薬を飲ませ、カープの遺体はその直後にザルツブルグの南にある鉄道トンネルで発見された。

長編第5作「007/ロシアから愛をこめて」(英国発売日:1957年4月8日)

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ノンフィクション「ダイヤモンド密輸作戦」

フレミング(49歳)の最初のノンフィクション作品である「ダイヤモンド密輸作戦」は1957年11月にイギリスで出版され、長編第4作「007/ダイヤモンドは永遠に」の背景調査を一部基にしている。この資料の多くは『サンデー・タイムズ』紙に掲載されたもので、MI5で働いていたこともある国際ダイヤモンド安全保障機構のメンバーであるジョン・コラードへのフレミングのインタビューに基づいていた。

ノンフィクション「ダイヤモンド密輸作戦」(英国発売日:1957年11月)

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原作小説:長編第6作「007/ドクター・ノオ」

「ジェームズ・ボンド」シリーズの原作小説の成功、特に長編第5作「007/ロシアから愛をこめて」の成功により、フレミングはますます創造的な仕事ができるようになり、原作小説への献身的な取り組みができるようになった。

長編第6作「007/ドクター・ノオ」(英国発売日:1958年3月31日)

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原作小説:長編第7作「007/ゴールドフィンガー」

フレミングは、「007/ゴールドフィンガー」のリサーチのためにロイター時代の友人であり、現在はイングランド銀行の職員であるバーナード・リカットソン=ハットに相談した。フレミングはバーナードとの付き合いの中で、銀行の一流の専門家を紹介してもらい、金塊の密輸についての調査や話に没頭した。

長編第7作「007/ゴールドフィンガー」(英国発売日:1959年3月23日)

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短編小説集「007/薔薇と拳銃」

「James Gunn – Secret Agent」のアイデアは2年後、CBSからジェームズ・ボンドのテレビシリーズを制作したいという連絡を受けて復活する。フレミングは、このプロジェクトに多くのエネルギーを費やし、13話分の企画書を作成するが、このプロジェクトはまたしても実現しなかった。しかし、その素材の一部は、後に短編小説「007/薔薇と拳銃(For Your Eyes Only)」で再利用されることになる。

短編小説集「007/薔薇と拳銃」(英国発売日:1960年4月11日)

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一方、フレミングは1959年に売却された『サンデー・タイムズ』紙を離れ、代わりに臨時のライターや編集委員として収入を得ていた。この年、ナッソーを訪れたアイヴァー・ブライスは、フレミングに、彼が出資した映画を監督したアイルランド人の若者を紹介した。フレミングは、友人が映画ビジネスで成功しているのを見て感銘を受け、また、自分の作品の映画化に進展がないことで苛立ちを覚え、まず、ケヴィン・マクロリーと、ジェームズ・ボンドを最終的に映画化する可能性について話し合った。

 

 

イアン・フレミングの生涯:1960年代~

進まぬ映画化、大統領の愛読書

ケヴィン・マクロリーは、主人公のジェームズ・ボンドについて大きな可能性を見出しており、ついに007の映画化に向けて大スクリーンに登場させるべく、アイヴァー・ブライスにプロジェクトへの出資を熱望していた。彼は、ブライスが出資した初の長編作品「The Boy And The Bridge」を監督したばかりで、この作品は1959年のヴェネチア映画祭に英国から正式出品された。

最初のプロットのアウトラインは共同で作成し、後にマクロリーがマクロリーの友人で脚本家のジャック・ウィッティンガムを呼び寄せて最終的な脚本を作成した。水中撮影の経験があるマクロリーは、大規模な水中アクションを提案した。後に彼は国際犯罪組織「スペクター」を考案したと主張したが、証拠書類によれば、このアイデアを考え出したのはフレミングであったようである。

しかし、フレミングとマクロリーのコンビはうまくいかず、友人のアイヴァー・ブライスとの関係もすぐに悪化してしまう。ブライスは、「The Boy And The Bridge」の製作費を使いすぎて、最終的な予算を提示せずにいたため、懐具合が悪くなり、これ以上の損失を避けるために、すべての映画企画をキャンセルしてしまった。激怒したマクロリーは、自分がブライスの映画製作会社である「ザナドゥ・プロダクション」のパートナーだと思い込み、最終的にはブライスから6ヵ月間の猶予をもらって、自分で映画の資金を調達することにした。

『サンダーボール作戦』の訴訟についてコチラ

『サンダーボール作戦』訴訟と「スペクター」復活の長き道程『サンダーボール作戦』訴訟と「スペクター」復活の長き道程

 

一方、『サンデー・タイムズ』紙に毎日出社する必要がなくなったフレミングは、ロンドンのアパート「ミトル・コート」にオフィスを構えた。1960年1月には、いつものようにジャマイカの別荘「ゴールデンアイ」で過ごし、日常生活に変化はなかった。映画の脚本の仕事は無駄になったようなので、フレミング(52歳)は、頓挫したジェームズ・ボンドのテレビシリーズのアイデアが短編小説『007/薔薇と拳銃』として作り直されたのと同じように、考えていたアイデアを次の本のベースにすることにした。

彼は3月にワシントン経由でロンドンに戻り、フレミングの小説のファンであったジョン・F・ケネディ上院議員から夕食に招待された。

それまでもフレミングの本はよく売れていたが、1961年には売上が劇的に増加した。1961年3月17日、出版から4年後、(「007/ドクター・ノオ」が酷評されてから3年後、)『ライフ』誌の記事で、「007/ロシアから愛をこめて」がジョン・F・ケネディ米大統領のお気に入りの10冊のうちの1冊として紹介された。この称賛とそれに伴う宣伝によって売上が急増し、フレミングはアメリカで最も売れているスリラー作家となった。フレミングは「007/ロシアから愛をこめて」を自分の最高傑作と考えており、「素晴らしいのは、この本が世間の一部の人々から好まれているようで、まだ完全に非難されているものはないということだ」と述べている。

 

 

原作小説:長編第8作「007/サンダーボール作戦」

1960年1月から3月にかけてゴールデンアイで執筆を続けていたフレミングは、自分とケヴィン・マクロリーやジャック・ウィッティンガムが協力して執筆した映画の脚本をもとに小説「007/サンダーボール作戦」を書き上げた。

原作小説:長編第8作「007/サンダーボール作戦」(英国発売日:1961年3月27日)

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1961年3月に「007/サンダーボール作戦」が出版される数日前に、ケヴィン・マクロリーとジャック・ウィッティンガムは、出版前の情報で、小説「007/サンダーボール作戦」のストーリーを知り、著作権侵害の訴訟を起こし、出版の差し止めを求めた。約3万2,000冊の本がすでに書店に送られていたため、この差し止め命令は却下されたが、裁判官は著作権訴訟を続行するとの判決を下した。

 

児童文学「チキ・チキ・バン・バン」

1961年4月、「007/サンダーボール作戦」に関する2回目の裁判の直前、フレミング(53歳)は「サンデー・タイムズ」紙の週間定例会議中に心臓発作を起こし病院に運ばれた。

医師はフレミングに健康的な生活を指導しようとしたが、彼はいくつかの変更以外は医師の助言を聞き入れなかった。医師の助言を聞き入れない馬鹿さ加減を見た多くの友人は、フレミングに手紙を出して説得したが何の効果もなかった。

療養中、友人の一人であるダフ・ダンバーがビアトリクス・ポターの「りすのナトキンのおはなし」を渡し、フレミングが毎晩息子のカスパーに話していたベッドタイム・ストーリーを時間をかけて書き上げることを提案した。心臓発作の後、フレミングは、ロンドンのクリニック、続いてホーブのダドリーホテルで1ヵ月間療養し、療養中にカスパーに話していた魔法の空飛ぶ車の話を書き始めた。フレミングの唯一の児童文学である「チキ・チキ・バン・バン」は、彼の死から2ヵ月後の1964年10月に出版された。

児童文学「チキ・チキ・バン・バン」(英国発売日:1964年10月22日)

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失敗する結婚、動き出すボンド映画

フレミングは夏の間、ケント州サンドウィッチのアパートで過ごし、ゴルフをすることは許されていなかったが、ハンディキャップ委員会、続いてハウス&ファイナンス委員会に所属し、ロイヤル・セントジョージズ・ゴルフクラブの舞台裏で忙しく活動していた。

 

1961年6月、フレミングは、カナダ人の映画プロデューサー、ハリー・サルツマンに、出版済みおよび将来のジェームズ・ボンドの小説や短編小説の映画化権の6ヵ月間のオプションを売却しました。サルツマンは映画化権のオプションを獲得したが、資金調達ができなかった。1961年6月には、ユナイテッド・アーティスツとの6作品の契約を得て、サルツマンは、アルバート・R・”キュービー”・ブロッコリとともに製作会社イオン・プロダクションを設立。フレミングは、1作品につき10万ドルとプロデューサーの利益の5%を受け取るという映画契約を結び、長年探し求めていた映画化への突破口を開いた。

しかし、フレミングの原作小説は映画、テレビ、書籍の権利が複雑に絡み合っていたため、映画化の話は頓挫しそうになっていた。また、最初の映画は長編第8作「007/サンダーボール作戦」を予定していたが、ケヴィン・マクロリーとの訴訟が続いていたため、撮影準備は、ロケ地がジャマイカのみでSF色のある長編第6作「007/ドクター・ノオ」に変更された。

サルツマンとブロッコリはジェームズ・ボンド役を広く探していたが、新人のショーン・コネリーを6作品の契約で採用しました。

【初代ジェームズ・ボンド】ショーン・コネリーのプロフィールに関する記事はコチラ

【初代ジェームズ・ボンド】ショーン・コネリー【初代ジェームズ・ボンド】ショーン・コネリーのプロフィールやキャリアは?

 

フレミングは、ジェームズ・ボンドを演じる俳優について、友人のアイヴァー・ブライスに次のような手紙を出している。「サルツマンは、絶対的な逸材を見つけたと話している。30歳のシェイクスピア俳優で、元海軍のボクシングチャンピオンで、しかも知的だと言っている」

フレミングは映画の契約を結ぶことに熱心だったが、おそらく「007/サンダーボール作戦」での経験からか、脚本に関与することはなかった。しかし、彼は映画製作者に意見を述べていた(最終的にブロッコリがジェームズ・ボンド役に新人ショーン・コネリーを選んだが、フレミングはジェームズ・ボンド役にデヴィッド・ニーヴンとロジャー・ムーアを推薦していた)。そしてフレミングは有名なものを含むいくつかのロケ地での撮影(ビキニを着たウルスラ・アンドレスが海から現れるシーンなど)が行われていたときにジャマイカにいました。

フレミングは、スクリーン上のジェームズ・ボンドは大きな話題になると確信していたが、サルツマンとブロッコリによって彼の夢はすぐに現実のものとなった。

コネリーが映画で演じたジェームズ・ボンドはフレミングが書く原作小説のジェームズ・ボンドのキャラクターにも影響を与えました。映画第1作目「007/ドクター・ノオ」が公開された後に書かれた最初の本である長編第11作「007は二度死ぬ」で、フレミングはボンドにそれまでの物語にはなかったユーモアのセンスを与えました。

 

映画の契約が成立し、心臓発作からも回復したフレミングの仕事は、火曜日の朝にロンドンに行き、木曜日の夜に帰ってくるというものだった。しかし、家庭内では、フレミング夫妻の結婚生活は決して順調とはいえず、それぞれが長期にわたる不倫関係を続けていた。恋人である労働党党首のヒュー・ゲイツケルが病気になったことで、アンはさらにストレスを感じるようになり、2人の男性のことが気になって仕方がなくなっていた。

 

 

原作小説:長編第9作「007/わたしを愛したスパイ」

1962年4月16日に出版されたフレミング(54歳)の最新のジェームズ・ボンドの小説の評判は良いものではなかった。長編第9作「007/わたしを愛したスパイ」は、主人公のヴィヴィアン・ミシェルの視点から一人称で書かれた実験的な文学作品で、ジェームズ・ボンドは最後の3分の1しか登場しなかった。そのためか出版後の評判はあまり良いものではなかった。

長編第9作「007/わたしを愛したスパイ」(英国発売日:1962年4月16日)

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長編第10作「女王陛下の007」

映画「007/ドクター・ノオ」は撮影前の準備段階に入り、1962年1月、フレミングはジャマイカに戻って長編第10作「女王陛下の007」の企画と執筆を始めるが、スクリーン上の007の将来性に満足していた。長編第10作「女王陛下の007」を編集者に提出した直後、フレミングは長編第11作「007は二度死ぬ」の事前のリサーチのために日本を訪れた。

長編第10作「女王陛下の007」(英国発売日:1963年4月1日)

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出典:https://www.rarebooks.ie/books/english-and-american-literature/on-her-majestys-secret-service-1964/

 

 

旅行記「007号/世界を行く」

「007号/世界を行く」は、ジェームズ・ボンドの原作者であり、『サンデー・タイムズ』紙のジャーナリストでもあるイアン・フレミングの旅行記です。この本は1963年11月にイギリスのジョナサン・ケープ社から出版されました。フレミングが取材した都市は、香港、マカオ、東京、ホノルル、ロサンゼルス、ラスベガス、シカゴ、ニューヨーク、ハンブルク、ベルリン、ウィーン、ジュネーブ、ナポリ、モンテカルロの14都市。

「007号/世界を行く」は当初、フレミングが『サンデー・タイムズ』紙に寄稿した一連の記事で、彼が行った2つの旅行に基づいていた。最初の旅行は1959年で世界一周の旅をし、2回目の旅行は1960年でヨーロッパを愛車サンダーバードで回った。日本では正(1965年)・続(1966年)の2冊に分けて出版されました。

旅行記「007号/世界を行く」(英国発売日:1963年11月)

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出典:https://www.ianfleming.com/new-thrilling-cities-audiobook-w-f-howes/tc-jonathan-cape/

 

 

ロンドンに戻ったフレミングは、監督のテランス・ヤングから映画「007/ドクター・ノオ」の試写会に招待される。ジェームズ・ボンドを大スクリーンで見たいという大きな夢がかなったにもかかわらず、映画をあまり楽しめなかった。

 

1962年10月5日、007シリーズ第1作目『007/ドクター・ノオ』英国で公開される。

『007/ドクター・ノオ』のあらすじとキャスト映画『007/ドクター・ノオ』のあらすじとキャストは?

 

 

1963年1月は、新刊の執筆のためにジャマイカに2カ月間滞在するというお決まりのパターンで始まった。アンは、恋人であるヒュー・ゲイツケルが重い病気にかかっていることを知りながら(ヒュー・ゲイツケルは1月18日死去)、フレミング(55歳)の後を追いかけた。

 

 

長編第11作「007は二度死ぬ」

007シリーズの映画第1作目「007/ドクター・ノオ」が興行的にヒットすると、ボンドの価値は着実に上がり、書籍の権利だけで25万ポンド(70万ドル)以上の利益をフレミングは得ました。

1963年1月~3月「007は二度死ぬ」執筆。アンとの結婚生活を修復するために努力する一方で、「007/サンダーボール作戦」の訴訟のことでもフレミングは心身ともに疲れ果てていた。

しかし、11月には次の作品のリサーチのために東京に向かい、『サンデー・タイムズ』紙の極東特派員であるディック・ヒューズと、小説「007は二度死ぬ」で日本の諜報部員タイガー・田中のモデルになった斎藤寅郎( “タイガー”・サイトウ)と出会う。3人は日本を巡り、フレミングは作品執筆のために膨大な量のメモを取った。

長編第11作「007は二度死ぬ」(英国発売日:1964年3月26日)

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出典:https://www.whitmorerarebooks.com/pages/books/2562/ian-fleming/you-only-live-twice

 

 

1963年4月~8月、体調不良にもかかわらず、フレミングは映画「007/ロシアより愛をこめて」の撮影を見学するためにイスタンブールを訪れたり、ラジオ番組『デザート・アイランド・ディスク』に出演したりしていたが、前年の長編第9作「007/わたしを愛したスパイ」は評判が悪かったが、長編第10作「女王陛下の007」の評判が非常に良かったことに安堵し、4月末までに6万部が発行された。1963年10月、映画「007/ロシアより愛をこめて」のプレミアに出席したフレミング夫妻は、ビクトリア・スクエアの自宅でプレミア後のパーティを開いた。しかし、出席した人々によると、フレミングは戸惑っているようだったという。

 

 

1963年10月10日、第2作目『007/ロシアより愛をこめて』英国で公開される。

『007/ロシアより愛をこめて』のあらすじとキャスト映画『007/ロシアより愛をこめて』のあらすじとキャストは?

 

 

長編第12作「007/黄金の銃を持つ男」

1964年1月、ジャマイカに到着した時、フレミング(56歳)は疲労困憊しており、長編第12作「007/黄金の銃を持つ男」の執筆に取り掛かったものの、1日の作業時間をわずか90分だった。同年、長編第11作「007は二度死ぬ」を出版したが、健康状態があまりにも悪かったため、看護師を雇って世話をさせていた。

フレミングは「007/黄金の銃を持つ男」の草稿を書き上げたが、 彼は作品の出来上がりに不満を持っていた。フレミングは編集担当者のウィリアム・プルーマーに手紙を書き、草稿の書き直しを頼んだ。 フレミングは草稿にますます不満を抱き、書き直すことを考えたが、出版に適していると判断したプルーマーに思いとどまらせられた。

長編第12作「007/黄金の銃を持つ男」と短編小説集「007/オクトパシー」はフレミングの死後出版された。

長編第12作「007/黄金の銃を持つ男」(英国発売日:1965年4月1日)

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出典:http://www.withnailbooks.com/2014/01/

 

 

短編小説集「007/オクトパシー」(英国発売日:1966年6月23日)

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出典:https://www.buddenbrooks.com/pages/books/28136/ian-fleming/octopussy-and-the-living-daylights

 

 

この間に、イアン・フレミング財団の収益に当時の英国では所得税の累進付加税がかかったので、余命いくばくもないことを悟ったフレミングは、自分が亡くなった後のアンとカスパーのことを思いイアン・フレミング財団の51%を10万ポンドでブッカー・ブラザーズに売却した。

 

一方、「007/サンダーボール作戦」訴訟のケヴィン・マクロリーとの裁判はまだ解決しておらず、11月20日にようやく裁判の日取りが決まった。フレミングとアイヴァー・ブライスは、数日間の法廷生活の後、法廷外での和解の機会を与えられたが、これを断った。しかし、1週間後、急遽、ブライスが費用と非公開の損害賠償を支払うことで、マクロリーとの和解が成立した。これは、裁判がフレミングの健康に影響を与えたことを考慮しての決断だったようである。

マクロリーは、「007/サンダーボール作戦」の脚本のすべての文芸権と映画化権を獲得し、小説の映画化権も獲得した。また、今後の出版される本には、「ケヴィン・マクロリー、ジャック・ウィッティンガム、著者による脚本を基にしたもの」という謝辞を入れることになった。

 

 

突然の死、息子との別れ

1964年8月11日、カンタベリーのホテルに滞在中、風邪気味ながら雨が降るなかロイヤル・セント・ジョージズ・ゴルフ・クラブでゴルフをした。その後、ホテルで友人と食事をしたが、その日は疲れていたのか、食事の後すぐにまた心臓発作で倒れた。

病院に運ばれたが1964年8月12日早朝1時、フレミングはケント・アンド・カンタベリー病院で亡くなりました。享年56歳。

(母親のイブは16日前の7月27日に死去。)

フレミングはスウィンドン近郊のセブンハンプトンの教会堂に埋葬されました。

11月4日に遺言が証明され、彼の遺産は302,147ポンド(2019年の6,168,011ポンド(約9億6000万円)に相当)と評価された。

 

8月12日は、息子カスパーの12歳の誕生日だった。

 

 

ジェームズ・ボンド007の物語は、全世界で1億部以上の売り上げを記録し、スパイ小説の中で最も売れているシリーズの一つとなりました。また、フレミングは児童文学「チキ・チキ・バン・バン」や2つのノンフィクション作品(「ダイヤモンド密輸作戦」、「007号/世界を行く」)を遺しました。

 

2008年、英国の『タイムズ』紙は「1945年以降で最も偉大な英国作家50人」の第14位にイアン・フレミングを選出しています。

 

イアン・フレミングの「007」シリーズの原作小説一覧はコチラ

「007」シリーズ原作小説を読む順番は?【イアン・フレミングの原作小説一覧】「007」シリーズ原作小説を読む順番は?【イアン・フレミングの原作小説一覧】

 

 

記事作成日:2022/01/07

最終更新日:2022/04/04

 

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